BBB
人生は変えていける。私は選び取ることができる。この言葉から始まる歌と、その詩を書き、そして歌う人たちを信じたいというのが第一。ほんとMVを開き第一小節目の音から良すぎて思わず口の端上がっちゃった。その直後小雪さんの声にさらに上がる口角。
환상들은 fake, 현실은 달라ね。なんかこの歳になって一層あるのは自分の生活だけで、他はどうでもよくなったというか、運動して本を読み映画観て住居を清潔に保ちたまにプール行って山に登って食べたいものを作ってそして寝る。ただこの毎日を積み重ねたい。住んでいる街も家も大好きだからあとは本当に仕事だけどうにかすれば人生に望む全てなのになとぼやいていたけれど、人生をfixするために今机に向かい始めてる。環境の変化もあるしBBBを聴いてマジでそうだよなと思ったのも大きい。私も人生を変えるために頑張ろう〜って。日々の積み重ね、生活の積み重ね、そうしていくうちに少しずつ変わっていくと運動を始めてわかったし。23年6月運動療法としてぽつぽつしていた筋トレにプラスでランニングを始めたら気持ちが上向くようになった。当初は目標体型や体重はなくただ自分の精神状態のためにしていた。今は元気になって体の形を気にする余裕というかこういう体つきになりたいという欲まで出てきた。運動するってなんていうか自分をケアできるようになった、私が生きていくことを肯定できるようになったということで、だから続けられている。たぶん今まで生の肯定を受動しエンパワリングされる側でしかなくて、そういうものに出会えるだけで貴重で信じ難い幸運だけれど、ようやくその主体が自己であれるようになった。人並みに何かを頑張れるようになったくらいじゃ望む結果というのは得られないかもしれないけれどsometimes works, sometimes doesn’tって感じでめげずに続けていきたいよ。
뭘 낭만 같은 소리를 찾고 있어
その気持ちがというより自分の甘すぎる姿勢が恥ずかしいのだけれど、高校生の時日芸の写真学科に進みたいという気持ちがあった。両親にぼそぼそと話したら、趣味が写真で私にカメラを貸してくれて聞けば教えてくれた父親でさえ笑ってた。まともに取り合われることなく一笑に付されてそれで終わり。私はずっとそれについて被害者面してたし、写真学科に行けていたらどう生きていたんだろうもっと生きやすかったんだろうかと夢想することもあった。だけどKぽ観始めてからは全く思わなくなった。だってぐずぐず言ってないで、本当にしたいことなら笑われたって反対されたって何としてでもするべきだし、できただろうから。それを実際にしてきた人達を前に世迷言はいえないから。けれど10代の未熟な私を庇ってやるなら、私は選べると思ってなかった。人生をしたいようにできると思っていなかった。思っていないというだけで、本当は選べるのに選ぶことができなかった。強烈な思い込みというか10数年生きてきた中で培われた規範意識から外れることができなかった。ドラマmineに狭い門にはさまれ涙を流す象の絵が出てくる。購入者のソヒョンが作者にどうしたらこの象は門を出られるのでしょうかと尋ねると、門は元よりなく象はどこへでも行けるのに閉じ込められていると思い込んでいるだけと返ってくる。そんなものはないんですよと言われたところでそれによって苦しみ且つ守られている人が即座に自由に動けるようになる訳じゃないし、自分でそのことを理解し受容しなければ難しいのだけれど、BBBで行ってること(= Secret tip)ってその手助けなんだと思う。人が自由であることの。イレさんのMy pleasureに毎度あざっすって声出してる。私は選べるんだって人は自由なんだって理解できたの本当にここ数年の話で、人が当たり前に理解し経験して幼年に学んだり生来備えている物事の側面を二歩も三歩も遅れをとって今学んでる。学生の時より働き出してからそのことを伝えてくれる人や作品に出会っている。濱口竜介監督『親密さ』の中で「暴力と選択」という詩がある。できることなら映画内で出会ってほしいけれど、上映場所や期間・配信プラットフォームが限られており、この文章を読んでいる人には知ってほしいから書き起こしておく。親密さを観た日から私は自分は選べないとはもう思わない、人にもそうは思わせないとただ決意し、それによって人の形と尊厳を保って生きていられている。
暴力と選択
暴力とは何かとずっと考え続けてきた
最近ようやく答えの一つが導き出された気がする
選択肢を与えないこと
もしくは選択肢がないと信じさせること
つまりは選ぶという人間精神の根本的な自由を否定し奪い去るもの
それが暴力だ
このことで身体的な次元にとどまらない暴力まで説明できる
身体的な暴力が否定されるべきは基本的に二点ある
それが人を不可逆的に損ない選択不可能性であるところの死へと近づけるから
もしくはまたそうした身体的な暴力が未来における選択の可能性を狭める
もしくは狭めるように要求するからだ
人に選ばせない 選ぶことができると信じさせない力
それが暴力だ
それは身体的な暴力にとどまらない
言葉と関係による精神の暴力があり
運命の暴力もまたある
しかし一般に暴力と思われているもの
それを世に放っただけで暴力は暴力になるのではない
この世には放たれた不完全な暴力が漂っている
それはもはやそれを吐き出したのが誰かもわからないような
常に着床の機会をうかがう暴力の胞子だ
我々に選べることは少なくとも二つある
一つは少なくとも自分はできる限りその胞子を吐き出さないようにすること
もう一つは自分がその胞子を着床させないということだ
極端なことをいえば人を殴ることは必ずしも本質的な暴力ではない
殴られた人間が自分を被害者だと感じたとき
自分は不当な影響力の下に置かれたと感じたときにのみ
暴力は完全な暴力となる
このことからある種の喧嘩や体罰が必ずしも暴力ではないという現実的な事態が説明できる
ちなみにもしそれが人に死をもたらすものなら
選択の可能性を奪うそれはそれ自体で成立する暴力だ
誰かを殴ることはもちろん暴力の胞子を吐き出すことだ
それが悪意に基づくものならそれはかなりの確率で着床するだろう
しかしそれはまだ完全な暴力ではない
それはまだ人の選択を奪い去りはしないからだ
このとき被害者然と振る舞う人々
彼らこそが実は暴力を完全なものとするのであり
彼らもまた暴力の担い手なのだと言ったら彼らは驚くだろうか
自分たちはただ暴力の純粋な被害者だと彼らは訴えるだろうか
彼らは言うかもしれない
そんなことは選べない
だって私は殴られたのだから
そんなことは選べない
だって私は罵られたのだから
そんなことは選べない
だって私は傷ついたのだから
しかし単に人を傷つけることは 人に傷つけられることは
それがいずれ癒えるならそれはまだ暴力ではない
人は全てを選ぶことができる
何かを選ばないことも
ただ一つ選べないのは選べないということである
その時人はもう既に何かを選んでいるからというトートロジーだけが問題ではない
人が選べないと口にするそのときに
自らの精神から選択を奪ってしまうならば
そのときに人は自らの内に暴力を育てているのだ
自らの精神から選択を奪ってしまうならば
彼 彼女は知らず知らずのうちに自らに暴力をふるう
そして彼らが暴力をふるうのは実は自らに対してのみではない
彼らは自分自身を通じて全ての人間に暴力をふるう
このとき暴力は単なる胞子であることを超え根を張り大地へと侵食する
人は何度でも選ばなくてはならない
なぜ選ばなくてはならないのか
暴力が奪い去ることならば選択とは与えることだからだ
選ぶことはいつも過去から未来へと向けられている
選ぶことは信じることと同義である
すでに確かな何かを信じることはできない
不確かな何かを信じ未来へ向かう力を与えることが選ぶということの本質だ
もし人が互いに不確かなまま出会い
それでも互いを未来へと向けて選び合うなら
互いに力を与え続けることもできるはずだ
それは信じ合い選び合う力だ
ただ暴力だけは選ばないための力だ
暴力も暴力の胞子も もうなくなりはしない
ただ私達はいつもそれを選ばないことを選ぶ
Kぽも最初は会社が資本の回収のために若者を酷使してるのに人の美徳や振る舞いについてコンセプトといって語るの形骸的だし寒々しいと思っていたけども、大事なことは繰り返し何度だって誰の口からだって発されるべきだし、多ければ多いほどいい。そう考えが変わったのは違うグループの話になってしまうけれどQueendomでのLOONAのButterflyを見てだった。削ぎ落とすこともアレンジすることも不必要でこれ自体がすでに完成形であると認識されるButterflyを選ぶという凄さに。私は私であるという自己の、価値の再構成を行うための選曲だったから。作用させられた結果ではなく彼らが信じる価値を勝ち取る構築のプロセスだったから。少女というのは一般的には流動的で確かさのない小さな存在として位置づけされるけれど、自己を堰き止める価値規範の壁を越えて自己の姿を得ることを歌う曲で、その世界の謂わば登場人物として虚構に囚われていた彼らが自分達でこの曲を再構築するのはマジな革命だった。彼らの置かれていた搾取的な労働環境を鑑みても。他者から決定されたことだとしても表現や言葉を伝えたいという強く真摯な気持ちや姿勢があれば、その、人としての態度は信念となり得る。そしてエンパワメントされる存在がいる。人は自由である、選び取ることができる、非武装の市民を圧倒的な軍事力で虐殺することはあってはならない、差別をするな、人を踏みつけたのならその足をどけるなんてほんと誰が何度だって言うべきことだよ。人の精神と身体は自由であるし、そのことと選択可能性は結びついてる。
結構ずっと "앙칼진hot fever to save you" について考えている。執拗で度が過ぎた気持ち。釈義しようと適切ではない感情たち。でも手立てがない中で、自分では対処できない問題を抱えている時に望ましさは私を救い得ない。のぼせてて、訳がわからなくて、いっときのことで、我を忘れているのだとしても、途方のなさから抜け出す道を否定できないと思うんだよね。否定できないというか切り捨てたら、それもやはり人間性の否定になるだろうから。何かに対する有効な方法になり得るもの、動機づけされるもの、ある価値を付与するもの。だからといって不健全で不道徳であることを肯定もできないけれども。
当たり前に自分のことしかわからないけれど、それでも存外に人は人を眼差すことの暴力性や両価性と正対しまたはどう向き合うべきか悩んでるよ。ongoing struggleなんすわ。そのそもパプキさんを見てること自体がダブルスタンダードだし。あまりに年少の人や未成年のいるグループは聴かない・見ないことにしていて出来る限り遮断している。どんなに素敵でもどんなに輝きを放とうとどんなに聡明であっても、あまりに年少である人を当人の魅力のために眼差すというのは成人として一線を越しているという念がある。他者への批判ではなく私個人が人を見つめる中での、という点で。6つ離れてたら厳しいかも。パプキさんならスアンちゃんが該当する。知ればきっと自分は好きだろうなと思えど避け続けている群があり。そう決めているのに課したことを守ることもできず、自分と同い年の人がいるグループならOK(同い年の人が親密な年少者にどのような態度と姿勢で接しているかわかるし距離を取って見れるかもしれないという見苦しい言い訳を添えて)という謎ルールを設けて見たりもして。これはパプキさんでいうならジウンさんにあたる。でも私が曲だけじゃなくてグループや個々人のことを知り始めた時には既に脱退という形だったので何にせよザルの目を通した欲に他ならない。ヨンパシ聴いちゃってる時点で反してるし。Kぽ市場の非尊厳性を指摘しながら、道徳観に背くことを自分の都合で捻じ曲げて欲に従う私がいる。ここら辺は自分でもほんとどうすんのよという感じ。でも今앙칼진 hot fever to save me isパプキさんなんだよなっていう。
パプキさんの曲いつもクィアネスの文脈だよね?と思う部分がある。10代の頃まで自分がgayだとは口にしないどころか文字にもできなかった。それは口にもできず隠すべきことだと思っていたから。でもDykeっぽさは漏れ出してるらしく尋ねられることは幾度とあり、その度にそうかもしれないしそうじゃないかもしれないと言っていた。今だってSNSに書いているだけで、家族や友人に言葉にして話している訳ではない。でも許されないみたいな思いはなくなったな。高3の頃だったか生きているのかもわからない血みどろの倒れた体をだらんと持ち上げられる映像を見てこんなにも憎悪を向けられる存在なんだと怖かったし、Same Loveを聴きながらNo freedom till We’re equal全ての人が平等でなければ自由はないの詩に力づけられたり、でも色んな人の色んな言葉に沈むことの方が多かった。頓珍漢で低俗で差別的な言動をもろに受け止めていた。今でも徒労を感じたりショックで固まることはあるけれど、誤謬だとわかるから大抵のことは受け流せるようになった。PRIDE MONTHにはDEMONが隠れていると大マジで騒ぎ立てていたけれど、逆にクィアが気に入っちゃってプライドマンスのDEMON部分だけが虹色のグッズとかいっぱい出てた流れ大好きすぎる。私もRina SawayamaのThis hellを聴きながらはいはいDEMONが通りますよ〜って感じで清々しく去年の6月を迎えてた。地獄に落ちると言われても地獄で楽しくやりますよだし、やってみたい地獄の落ち方あるんだよねNasのMONTEROみたいにポールに掴まって回りながら行きたいな〜って感じです。メンタルヘルス調査でも結果が出ているけれどクィアは強い抑うつや不安を抱えており、トランスジェンダーはその中でも群を抜くのだけれど、社会的に否定されて異常だと烙印を押されたりジョークとして扱われたり、それが日常である中で健やかに生きていくのってまず無理だよ。私gay gay言っているけれど女のひとと付き合ったことない。小さい頃から女が好きな女(自己認識はデミウーマンだけど)だと思って生きてきたのに好きなメンズがいて。彼と初めて会ったのは7年前だけれどその瞬間のことを今も覚えている。ノーティカの信号色のジャケット着ててああかっこいい人が近づいてくるとスローモーションに見えて、こんな人と付き合えたならとすら思った。そもそも自分にとって恋愛感情自体が意味不明な概念で、それがクワロマなのか何かもわからないし、わかったとしても相手は女のひとかなと思ってた。だから彼のことが好きで恋しく思うのに、この気持ちは逃げて開けた扉の先にいた優しい人に甘えているだけじゃないのかとか、社会から認められる形で幸せになりたいとかそんなことに起因していたらどうしようと不安で。それを明らかにするまで気持ちは伝えられないなと思っていたけれど、何年考えてもわからなかった。彼は自分が食べたくて頼んだのに三等分してあるピザトーストの真ん中を一番美味しいからとくれるような人で、陰気な私が恥ずかしがったり面倒くさがること一緒にしてくれる。都美術館に行った帰りに私が科学博物館のミュージアムショップで恐竜のぬいぐるみを見たいと言って向かったら入り口に事前予約がないと入場できませんと張り紙がしてあった。それを見てすぐ帰ろうとしたら聞いたら入れるかもしれませんよという彼の言葉にいやいいです(私の口癖 人に質問ができないしすぐ諦める)と言ったら、私が聞いてみますと彼が守衛さんに訊いてミュージアムショップ限定の入場券を発行してもらった。無事かわいい恐竜キーホルダーを買えた。いつでも何でも私より熱心に聞いてくれる。彼といると人生にはこんなにも美しい瞬間があるのかと静かに感動することが何度もあった。彼に向かう気持ちがなんであろうとそれに飛び込んでみようと交際関係になり、結果的に期間は1年くらいだった。別の人が別の人について言うのを聞いて腑に落ちたのだけれど、ああ私って彼になりたかったんだと気づけた。スキンフェードの綺麗なグラデーションに綺麗に生やしたお髭、洒落た眼鏡をかけて大柄な体が何を着ても似合ってかっこよくて可愛いくて熊さんみたいで、親切で賢い人。でも私はそうなれない。デミウーマンと前述したけれど、男自認ではないけど男になりたいとも思ってて、そして自分のこと完全に女だとも思えなくて、だけど女として扱われるし、とか考えてもわからないことをずっと考えていると自分という存在が揺れて精神状態も不安定になって沈んでいくから、まず生存するという点からとりあえず女だということで社会生活を送ろうと、今は考えるのをやめている状態であって。で交際関係を解消したのが22年末で時期を同じくしてdepressionの波と重なったから、そこに因果関係があるかは不明だけれど関係あるかもなと少し思ったりして。恋愛規範かつ異性愛規範が根強い世でそれに添えていること、そうであらない時の批判や詮索を受けないことは確かに精神の安定に繋がるみたいだと。私だって知らなかった、それにNOと言いたい人間だから。何が言いたいかというと、社会的受容の有無は個人の精神に多大な影響を与え得る。どんなに個人が努力や時間の経過によって自己受容できるようになっても、それでも変わるべきは社会である。社会から存在を否定されるなら暴力を受けるならいっそ死にたいと願う子どもや人がいないようにしたいよ。というのをゴウンさんのDon’t be alone 착하게 받아 주지 말고に思った。規範や他者の価値判断をそのまま受け入れなくていい。
Say what you wantと歌うのがいつでも対話によって他者を理解しようとし、自分の気持ちをきちんと言葉で伝えていくウンソンさんというのがもう嬉しくてたまらないしありがたい。抑うつ傾向は昔からあったけれど新卒入社一年目の冬に精神の限界が来て、あの時の感覚を説明するなら体が疲れたら知らぬうちに眠りにつくように、あまりに精神がぼろぼろで虚ろで気を抜いたら自分が自分の意思とは関係のないところで自死しそうで怖かったし全てに混乱してた。最悪を脱して寛解状態が続いた頃から何で私が殺されなきゃいけないんだろう、死ぬくらいなら好きなことに金を散らしてやると開きなおりというか、生きていく上での居直りが少しずつできるようになった。나쁜 게 날 걸 상처보단 もその通りでございます。傷つくよりはいい。死ぬよりはいい。
Like a villainのフレーズはああ若いなと温かい目になっちゃう。この部分はスアンちゃんが書いたんだろうか?villainでないと好き勝手できないから。したいようにするのはvillainという考え方自体が幼さを残しているというか。でもその認識って規範の強さから来ている。したいことをするのをBad behaviorと言うのも。だってBadじゃないし。実際曲中では意味の逆転が起きていてBadは推奨される行為であり、規範によって抑圧されていた存在が自己の輪郭を得ていく過程であることの強調になっている。規範やオーソドキシーは強固であるけれども権力の作用後にそれに抗うことが自由であるしBad behaviorっすわ。
(下記は昔ブックマークしていた記事の文章なのだけれど削除されたようで控えていたURLは無効になっていた)
批判が目指すのは、暴力革命でもなければ、統治なき世界でもない。「どうすれば現在のような仕方で統治されないか」と問い続ける姿勢である。無血革命はそこからしか成就しえない。
権力は不可避である。それゆえ、戦いの拠点は身体の外部(権力を回避すること)ではなく、内部(権力の作用後)にある。権力とは突きつめれば「行為させること」である。であれば、権力を行使されたうえで、なおも、その権力に抵抗することが可能である。
スアンちゃんのThe truth is you are born this way can’t change itに泣かないクィアはいるでしょうか。私本当にMary LambertのShe Keeps Me Warmが好きで「I can’t change, even if I tried. Even if I wanted to. どれだけ努力してたとえ変わりたいと願っても私が私であることは変えることはできない。」の歌詞は有名だけれど曲全体があまりにsafe spaceで揺りかごみたいで、それを聴いている時と同じような心地になった。ほんとプリコーラスのDon’t be aloneゴウンさんからSay what you wantウンソンさん、Can’t change itスアンちゃんへelevateしていく感じがもうふわふわな雲がいっぱいある空を一歩ずつ駆け上がる心地でもうsent to heaven。
2番の歌詞が知識不足のせいでいまいちピンと来ていないから勢いで見ていくけれど、半ば底の抜けた社会だとしても美しいものを見出せないなんて(正気のままでいるなんて)、熱中してこそ我を忘れてこそ望むものに手が届くって感じですか?以前私も全然使っていたから何とも言えないのだけれど、程度が普通ではないことを表す時に狂ったという語を使用するのそうか…と思う。韓国語だと結構多いけれど。だけどミシェルオバマも言っております「When they go low, we go high.」って。相手が尊厳を欠き低俗であっても、私達は気高くすべきことをする。これも26年かかってようやく気づけたことだけど、人生って一生懸命やるしかない。ほんとそれ。
未来に思いを馳せながら
夢の中の小さな羽ばたきは
世界を変え
次第に現実を塗り替えていく
あなたがそばにいてくれたなら自由に飛び続けられる
いつまでも幸せに過ごす私達
詩としてもめちゃくちゃ美しいし、今アルバムは彼らの固い情緒的絆について描いていると公式に明言される中でこの言葉はあまりに多くの意味を内包しすぎてなんか泣いちゃう。1theKキャンプファイヤーでPURPLEKISSの歩みたい道は?という質問にチェインさんが誰も失わなければいい離ればなれにならなければいいと答えていたことを思い出す。それが一番に願いとして出てくる人達が歌う言葉だと思うと。USツアーも大きな目標は「抜けないようにしよう」だったという。できる限りそうはなりたくないけれど1ヶ月のスケジュールの中で体調が悪くて途中で抜けるメンバーがいるかもしれず、その空白を埋めなければいけないことがあるかもしれないと覚悟していたと。その話の時にスアンちゃんがみんな責任感のある性格だからと話していて大きく頷いちゃった。スアンちゃんもきちんと言葉にしていく人で、不当なことや誹謗中傷には毅然とした態度を取るし、優しいし可愛いし真実を話すけれど甘言はあまり言わず内と外がはっきりしていそうで、イメージとしてはCOSAの"おれはLike Sinatra しかしフランクではない 仲間以外に回す愛は持ち合わせない"ラインの感じ。だからスアンちゃんのメンバーについて話す言葉を聞くたびににこにこしちゃう。パプキさんは勤勉で誠実で愛情深くエネルギッシュで責任感があり自由であろうとする人達だけれど、どこか悲しいところもあって。それが何に由来するかは推測でしかなく、誰かを失うかもしれないという恐れやもう失うまいという傷ついた心かもしれないし、でもいつでも近くにいようと彼らは言うんだよね。我々は異なる存在で意見の相違があるかもしれないけれど一緒にいようって。agitの感傷にもそれが表れ出ているような。今回だって皆がいれば自由でいられる末永くこのままでという願いが、美しく微笑ましいけれど少し悲しくて。誰かといることを諦めないって大変だし努力が必要なことだよ。普段から話し合っているんだろうなって感じるし互いに互いを仕事人として尊敬し信頼し合っている姿が素晴らしい。Feel in my dreamからの詩もクィアネスや社会運動に当てはまる内容で素晴らしいです。初手のプロモーションは外向きだったけれど、曲聴いてあれ?なんかめっちゃ内向きじゃない?と思った。Intro:CrushもBBBも歌詞だけみれば人が情熱を抱く対象の側からの肯定と奨励で、プロリからしたらパプキさんからおれらのこと好きでいていいよと言われているようなものだしね。対象は必ずしも言語表現ができるとは限らないから代弁される。BBB自体は自己受容の曲だけどこの曲での話者は聴く人間が好きに反映できるようになっていて、それでも彼らとしてはこれは私達の、友人に対する、近しく尊敬できて愛する人に向けた言葉なんだというのがマジに好きすぎるし、でかすぎるLOVE。happily ever afterっておとぎ話や婚姻の際に用いられる語だけれど、物語の終わりというのはロマンティクラブイデオロギーに収束されることが多く、友愛というものは唯一絶対の愛の形である婚姻に次ぎ、それ以上人生に立ち入れないみたいな通念ある。でも何より一番に友だちのことが大事で愛している人間だっているよ。扶け合い、このパンデモニウムような世で共に生き抜く。親密な両者の関係は恋人に帰結せず、だからといって恋人になれない訳ではなく、あなたにしか感じ得ない感情があり、時にときめき、時に相容れず、あなたが人生で多くを選び取れることを願う。そうものじゃん。ほんとのほんとにパプキさんが男女間の不均衡があるこの世でBXXをBest Friends Foreverとして(XXは女性染色体を表す)、私とあなたの選択が奪われないように、ある価値規範の中で蔑ろにされてもあなたの本質を奪えはしないしその外に抜け出せる、望むことは口に出すべき、と一つずつ一つずつゆっくり構造や規範によって閉じられた身体と精神をときほどいくこの過程に称賛を送りたいです。
これだけは記しておきたい。MVで彼らが銃を持つ必要はあったのだろうか。どうしてもBBBで行っていることとこの光景が重ならなくて。あまつさえお互いに銃口を向けて床に倒れて。床を舐めるように低い画角に倒れたウンソンさんの半身が映る。それがとても苦しく、醜悪にさえ思えて目を閉じた。どうして好きな人達のこんな姿を見なきゃいけないんだろう。現在進行形で虐殺・民族浄化が実行され多くの人の知る所である今日に企業が若者に兵器である銃を手に取らせ且つ互いに撃つということを公式に行ったことがショックで。ファンシーな色の銃にはグリッターがまぶされ発射されるのは紫の煙幕であり、世界を彼らの色で塗り替えていくという意図や暴力に対する克服が含まれているであろうこともわかる。わからないけどわかる。でもそれなら誰が見てもわかる形で、明確で確固とした形で示すべきだし、銃火器ではない装置を用いるべきだとも思う。もしどうしても用いるならこの兵器の殺傷力で何を破壊し得るのか、家父長制をぶっ潰すsmash the patriarchyとか間違えようのない形で示してくれたらと思うけれど、恐らく配慮や懸念が全くない訳でもないのに掛け合わせの中で結果的に全部がぼやけてて、何で?って思ってしまうんだよね。暴力革命ではなく人が自らの精神の自由さのために尊厳や生きていく力を得ていく過程を踏んでいるのになぜ銃?って。安易であるという念の方が勝る。そもそも私が銃火器を嫌悪しているからというのは十分にある。でもこの件に関しての一番の点は、彼らがそれを楽しそうに無邪気に行うことに何と思えばいいのか、何と声を掛ければいいのかまるでわからない。わからないなということ。終わり。
BXX前まではそれぞれをそれぞれに好きだけれどその上で好き人が頭ひとつ飛び抜けている感じだったのが、今は均ってきていてこれが俗に言うところのオルペンの感覚なのか…ってなってる。BXXスタイリング全員とんでもなく似合ってるけれどその上でイレさんが毎回最高を叩き出してた。むきゅむきゅしてて可愛いエナジャイザーリスちゃんなのに、踊る時の目の流し方とか軌道とかオーラがセクシーでマスキュリンなの本当にかっこいい。マスキュリンといえばLove is deadビハインドでイレちゃんがtechに似合う曲ないかなとウンソンさんに聞きshoot outと返ってきて楽しそうに体を動かした後、ガールズグループではないかな?と口にしてた。techwearや係る表出、つまるところのかっこいいものはメンズだけのものじゃないという念がこの一言の内に滲んでて私イレちゃんのそういうところがめちゃめちゃ好き。そういう点でもBXXがよく似合う人だと思う。ほんとみんな望む形で望むように幸せになろうね。
低血糖で2度ほど失神したことがあると友人に話したらラムネいいらしいよブドウ糖入ってるからと教えてもらい通勤鞄に常備している。ここ何ヶ月はちゃんと食事摂ってるからやばいと思う瞬間ないけれどお守り代わりに。Intro:Crushを喩えるならそのラムネ。