好きなら好きなだけ遠いよ

ぶつくさと独り言

TOMBOY

公開された日から毎日狂ったように聴き、届くのを今か今かと待ち続けたI NEVER DIEが届いた(3月の終わり)。TOMBOYにこんなにも熱狂しているのは家父長制への抗議、解体の意が明確に示されているから。これはコンセプトではないと私は言いたいよ。彼らが示すようにこれは彼らの態度であるから。今日多用されるコンセプトという語は単に商業的戦略の様相としての虚飾のような、ある種の寒々しさがある。そしてそれは資本家である会社と雇用契約を結び表現の方向を定められた姿が、搾取される立場の弱い労働者に感じ得るからなんだけど。そこに熱量や技術があったとしても歌手を名乗る人が、自分の考えや主張を曲に反映することが容易ではないとはどういう状況なんだろうか。だからこそ流行に左右されず夢幻的で情熱的な自分達の音楽をやり続けてきたアイドゥルが好きなんだけど。メンバーがプロデューサーとして作詞作曲振付衣装撮影指導MV内容に対する裁量があるからといって、それをそのまま讃えられない。曲作れるからすごい〜って話じゃないんだよ。そこに人としての生活の態度がなければ。アイドゥルにはそれがあるからこんなにも好きだし尊敬している。

ソヨンがデビュー前に作曲を勉強した時、女性アイドルが作曲を習うことが珍しいとされ、作曲とプロデュースがしたいのだと言えば不思議がられ理由を聞かれた。たかだか数年前の話。アイドルでプロデューサーであるGDやZICOについて話せばあの人たちは男じゃないかと言われる。そう言われるたびにそれがこのことと一体何の関係があるのだろうとわからなかったとインタビューで話していてああ…と思ったし、腕にある心電図のタトゥーについて話した時もそう。彼女は人生の出来事や考えを曲にしているけれど、タトゥーは主張というより特別な出来事を記録しているものだと話し始め。私が生まれて人のためにできることはいくつあるのだろう、一生で何人の人のためになれるだろうか、他者のために何ができるか、私が何か一つでもして死ねるだろうか。そんなことを日頃思っていたからとても考えて臓器提供の申請をした。それが自分にとって大きな出来事だった。なぜそうしたのかと言われれば私はただ善き人でありたいと話していた。ソヨンはすごい人だけれど、この社会の中で女として生きていれば否応なしに被る経験の共通項であったり、人として願うことの類似であったり、それを感じられるところがまた。

ソヨちが自立し考えを言動で示せる立派な人だとは百も承知だけれど、本当にとても可愛い人で私より年少なので彼がどうか傷ついたり悲しむことがなければいいのにと思う。こんな人が自分は破滅を願われるvillainであると気づいたと話すのは悲しすぎるから。VILLAIN DIESソヨンのラップパートに「You put me down and want me dead」あなたは私を貶め私に死んでほしいと思う、とある。ここに置かれた感情の悲痛さにずっと沈んでいる。人は誰かにとってはヴィランであり、誰かにとってはヒロインであるかもしれない。私をこんなにも傷つけ苦しめるあの人はヒロインだからと守られ選ばれる。けれど私の立場では私がヒロインであり自分自身を守る。ソヨンはTOMBOYの詩を韓国語で書いていたし、それで進めたかったけれど、韓国語では語の意があまりに強すぎるから英語にするより仕方なかったという話をしていた。英語箇所は検閲されてなお主張したい部分、避けられた表現であるともいえる。夢は確信に近づくと場面が変わるというのに似ているね。LIARみたいに普通に構成上の演出としてもあるだろうけれど。本人の口からこの話を聞いてから更にTOMBOYに込められた気概、VILLAIN DIESのあまりの苦しさに泣きそうになる。

 

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私の言動は女であるから男であるからではなく私という人間であるから、一人間存在として取り得るのである。けれど性別役割分業を始めとする他者からの行動規範の固定化が実際にはある。家父長制はそれを補強する社会構造なんだよね。TOMBOYの主体はつま先に元恋人のタトゥーを入れているような強烈な人なんだけど、歌詞を拾っていくと「니가 싫 다 해도 좋아 」にが しるた へど ちょあ、これは韓国語初心者の私もわかる、あなたが(私の言動)を嫌おうが別に構わないとある。そして「Why are you cranky, boy? 뭘그리 찡그려너 」どうしてそう不機嫌なの坊っちゃん?顔を顰めて、「미친년이라말해 What's the loss to me ya」 イカれた女って呼べば?私は何も失わない、に続く訳なんだけど。クソ男選手権かと思うほどクソ男の特徴が書いてあるんだよね。不機嫌さを全面に出せば周りが自分の"お気持ち"のために動いてくれるとか、相手を狂っている,狂った女だと主張し貶めることで社会的立場を守り自己保身するって何万回と見てきた光景だよ。女に侮蔑語の년を持ってくることで、この女性が悪意を前にしてもだから?って自分のしたいようにする姿勢と男の卑劣さが強調されてるのがめちゃくちゃソヨンって感じ。家父長制にとっての"善良な男性が気に入らない女性に取る言動って大体そんなものだけど『人を記号化して枠組みに押し込めるなら、あなた達が偏見を込めて呼ぶTOMBOYに、男らしい女性なんてないけれどそう呼ぶなら私は私を変えないしfucking tomboyになってやるよ』と反駁する。

TOMBOYで行われているのは最早言葉の再領有(reappropriation)なんだよね。差別的に使われてきた言葉や概念を、差別される側が肯定的に再定義し用いるといった意味変化の形式のことなんだけど。差別的また支配的な体系によって、自分自身、そして他者の見解を制限されることをよしとしない。私は私について私の言葉で語り、構築し、自らを定義できる。それをやってるのマジで信頼しかない。

「Your mom raised you as a prince. But this is queendom right?」の次に「I like dancing I love ma friends」が来るの大好きすぎておれらの歌じゃん最高〜ってなる。小学校だか中学校だか社会の授業で男女雇用機会均等法を習った時なにそれ男女が平等じゃないことあるの?何時代の話?と思ったんだけど、大学卒業してからこの社会というのは習ってきたより、保障されるべきで保障されていると信じていたものより、もっと最悪だという現実に殴られてさ。

事実として女性というのはこの社会にとってマイノリティであり、男性は男であるというそれ自体が特権の上にある。配慮されてきたことや男女のダブルスタンダードを認識しづらい。また更にこの歌詞の良さを助長しているのがMVでソヨンはグループ名のG(girlの意)だけでなくThe Queenにも線を引き消しているところなんだよね。属性による区分やそれによる評価の相違に対して、等しく人間存在としてただその点においてのみ議論できる基準まで持っていきたいし、何ならソヨンはその土俵にいる。19年LIONではI’m a queen、21年Is this bad b****** number?ではZ世代を率いるアイドルラッパーはqueenなのかkingなのか誰であるのかと詩を書いている。femaleアイドルとしてだけでなく、femaleとmaleとをそれぞれ区分するのでなく、ソヨンはK-POPというジャンルの中で頂点でありたいんだよ。また繰り返しになるけど会社と所属アーティスト,練習生の力関係はあまりに不均衡だ。会社は資本的価値を追い求め、そのために魅力的な若者を利用している。CUBEについて言えば、先輩にあたるCLCはどうでもいいヒットしているアイドゥルが最優先と予算を注ぎ込み、それをCLC当人達にも言い放ち踏み躙る行為を重ね、こんなのは不当だと抗議し脱退したエルキーに続き次々と脱退していき残ったのは3人程で事実上解体だった。ユジンさんもだからガラプラに出ていたし。ソヨンの「あなた達が私にできる一番のプレゼントは連絡してこないこと、祝賀の食事の場も用意しなくていい」と喜びを分かち合いたくないというCUBEへの拒絶を目にし、使役や搾取される存在であった自身や友人、大切な人たちを下敷きにしてきた体制に対する不信は根強いしそれはきっと修復不可能なのだと思った。曲の出来がどうあれ作曲経験もあまりない若い女性にデビューのタイトル曲を任せるという判断をすること、それは他の会社ではできなかった偏見なく眼差してくれたと感謝の意も示していたし、会社において役職に関係なく意見を聞きたいと言っていたし険悪とも言い切れない。出社したPDソヨンの「おはよん会議しよっか」の一言で社員がぞろぞろと集まり、企画会議が始まったのマジBOSSじゃんって感じ。


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彼が音楽をする上で重要なのは信頼できるかっこいい人と愛するチームで仕事をすることじゃないかと思う。ソヨちっていつもアンコールステージやコンサートが終わる前に、一緒に仕事した人への謝辞を述べるんだよね。彼は仕事を愛しているし、それは信頼の上で成り立つ。これまで会社が下してきたある部分での決定や考えをアイドゥルは是としていないし、抵抗もしている。その中で所属会社を曲を出すための機能として位置付けているのも確かではある。機能として利用する、利用できる立場へ転変したこともすごいなと思うんだよ。だからこそソヨンが社内でも社外でも仕事をしたい人と仕事をして、チームを組んで、自分のしたい音楽を自分のしたいように作っていって、そこには制限もあるかもしれないけれど、その姿が人を搾取し続けるK-POPビジネスからの解放の糸口を含むように思える。そしてそんなソヨンの姿はemperorと呼ばれている。K-POPの皇帝。ソヨンを表す語としてemperorが自分の中でしっくり来てる訳ではないから、適当な語を見つけたいんだけどね。

そしてThe Queenを消してもthis is queendom right?って言ってたじゃんの点がある。これは領域の話だと解釈してる。人が所有し得るのはその人自身、その精神と身体である。他者の言動は支配できないし、父(母)から財産を相続できるprinceとして慮られて育てられたかもしれないけれど、人が所有し得るのは自己のみだけどその辺大丈夫そ?という批判と煽りと受け取っている。

私はTOMBOYってレズビアンの文脈の言葉という認識があるんだけど、クィアであり女であるというダブルマイノリティについて表す言葉をI NEVER DIEという名のアルバムのタイトル曲題にして打倒家父長制を歌いオールキルしてるのかっこよすぎて、人がこんなにかっこよくあれることある?って感じ。これだけは言っておきたいんだけど、この曲の意図するところは反男性ではなく女として存在を閉じ込める社会的圧力、そしてそれは男性の形を取り得るってこと。表象としての。そもそも主題はジェンダーロールだけど全ての偏見に対する彼らの見解だとちゃんと明言されているしね。この曲を書こうとしたきっかけも多く一語一句に意味を含ませた上で、感じるように感じてくれればってソヨち言ってた。まずジェンダーロールについて思ったけれど、身体の自己決定権についてかなとも感じた。他者が個々人の身体や精神に介入しようとすることへの批判にも聞こえて。ルッキズムや資本主義の中で魅力的であるとされる容姿を求められること、資本的価値を持たせようとされること。それはそのままKPOPの土壌について。規制音なしのCDverではソヨンのバースにI like to sex drinking whiskeyとある。個人的には誰であれ性的表現しないでくれないかな〜と思うのだけれど、実際に男性やメンズラッパーが性的なことを大声で話していてもそれは"普通のこと"だと捉えられることは多い。でも女性が同じことをすればそれは淫らだと批判されたり、性的消費していい対象だと認識される。自分の身体や経験について話すことを、ある属性ばかりが非難されたり規制されるのはおかしいから、ソヨンがリリックに性的交渉について記したのもマジわかる〜って感じ。

アルバム題からしてフェミサイドについて言及しているのかなとか。シュファについてどうしても書いておきたいことがある。先月中国唐山市内飲食店で女性が男に体を触られ抵抗したら集団暴行を受けた事件があった。唐山打人事件で調べると詳細が出てくる。映像があるけれどフラッシュバックが起こる可能性がある人は見ない方がいい。暴行を受けたことのない私でも過呼吸のようにうまく息ができなくなって、うずくまるしかなかった。無力感とどうしてこんなことが起こり得るのか怖くて泣いてしまったから。男が酒瓶や椅子で女性を殴打しつ続ける。店にいる男性は見ているだけで誰も介入せず、一緒にいたグループの女性だけが止めに入るけれど同じく暴行を受ける。男の仲間が複数人加わり血まみれで倒れながら外に引き摺り出され暴行は続く。12日朝Twitterで唐山打人という言葉を何度も見かけそれで調べたけれど、シュファが微博で声明を出していたからだった。「親愛なる女性へ。あなたが負った痛みや恐怖、不正から助けることができずごめんなさい。」から始まる投稿。加害者に対して「人として生まれたなら、人であらなければならない。このクズどもに言葉が通じるかはわからない。こんな奴らがいるから女性は自己防衛を取らなければいけない。」と抗議と怒り、被害者に対する深い謝罪と寄り添う気持ちを記していた。あなたは良い人だけれどアイドルだしこれを示したことでヘイトの対象になるかもしれないことが心配だという声には、「誰かにとってアイドルであれたらと望むけれど、アイドルとしての立場を守るために口を噤むのは違う。私は正直に誠実に生きたい。不当なことには声を上げたい。」と返していた。

シュファは人としての尊厳を保ち続ける。普段はどゆこと?と思う言動がなきにしもあらずだけど、彼女の人としての姿勢は一貫している。19年になぜ化粧をしないのという声に答えてたんだけどその返答もかっこよくて自分の中で価値基準がはっきりしている人だな、そしてそれを人に伝えようとする人だなと思った。

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「多くの人になぜ化粧やネイル、髪を染めることをしないのか聞かれます。あまり着飾らないけれど外出前には鏡を見て身なりを清潔に整えてますよ〜そうあることが私には快適な状態だから。人がそれぞれ美しさに対する追求や好みが異なることは知っています。皆さんが(飾った姿を)好きであることを尊重します。そして私は自然な私の姿が好きです。人から見たら足りないかもしれないけれど、私にとっては"私自身であること"が重要であり、そしてそれが私の思う美しさです。人が私をどう評価するかわからないけれど、ありのままの自分を愛し続けます。」

 

TOMBOYのMVが私にとって伝説の映画『Assassination Nation』を感じるものだったことは大きかった。真っ赤なジャケットを着て武器を手にするあのビジュアルと主題の出力の仕方にオマージュか?と思っちゃったよ。これに関しては私が人に勧めたい映画というだけだけど、20年に観た時の感想をそのまま置いておく。

不可避の暴力性に溢れた世界で苦しみを自己の有用性・正当性の主張によって軽減させる人々の中で尊厳を持って生きていくには愛のある連帯が必要だよ。人道に反する、議論の余地がない、問題を後の世代になすりつける、そういうことがクソなんだよ。それに賛同したり、服従したり、屈服したら死ぬだけ。それは間違っていると声を上げれば応じてくれる倫理観を持った人が現れるはずだから。確かにこの映画は過激で暴力的な描写があり不安で怖くなるけれどああいう最低な人間は存在する。それと闘っていかなければいけないのも事実。こわいけれど。

 

今回のアルバムには強い意志と同時に深い悲しみも感じられる。それを失ったら私は私でいられないと思う大切なものだってこの世はいとも簡単に奪い去っていくし、一人の人間が到底対処できぬことが次々と押し寄せるし、どれだけ深く傷ついても人生は続いていく。そういう無常さと押し潰された人間の姿が見える。それにI NEVER DIEは確かに誰かに宛てた、捧げられたアルバムなのだけれど、そのただ一人のひとが誰なのかわかるから殊に悲しく殊に強く琴線に触れる。

私の話をすれば今だって終わってくれるに越したことはないけれど、1年半前が最もひどかった中学生頃からずっとあった希死念慮が確かに晴れてきていて、こんな日がくるんだなとそれにいちばん驚いている。自分で死にたいとは思わなくなった。それが最近の私にとっての大きなことだったのでそれもI NEVER DIEを特別に思うひとつの理由かもしれない。

 

KPOPはあまりに不健康でそれを受け止めきれないからなるべく距離を置きたかった。何であれ基本的には人を刺激して欲を煽るものだから。 倫理・健康の問題を抱え、眼差す人間も不信やジレンマを抱えて尚膨らみ続けるKぽ市場で、賛同できないことや苦しい事実は多いから。それでもふらふら寄ってしまう意志薄弱さ。私だってKぽを楽しみたいよ!!!というそれはそれで最悪な感情を持ちながら。I NEVER DIE以後マジでアイドゥルしか見えないの。よく使われる言い回しだからこう言ってるんじゃなくてマジで。Kぽにそうであってくれたらと求めていたものに知り得る限り最も近い人たちだから。音楽スタイルや主張、人としての態度を支持できて、今彼らが私の中であまりに確固たる観念になっている。世には様々なグループがあり、素敵だなとは思うけれど惹かれなくなった。今少なからずそうなってしまっている私が言うには滑稽だけど、ある個人を好きでいることを自己の中心に置いたり、支柱にすることは不健全だし避けるべきだ。人を崇拝したり当てにするのも。人は自分の中に救いを見つけてこそだと思っているから。自分の中に支柱を得て自分の中に生きていく術を見つけなきゃいけない。I can handle itと I can’t handle itを行き来してばかりだけどそれが今の人生のテーマなんだ。カメラが回っているとき回しているとき、その時の言動がどれだけ彼らの内的世界の表出であるか実際わからない。けれど一つひとつの言動に、この人が生きてきて経験してきて思考してきて失ってきて譲れない価値規範があるのだと感じるし賛同や信頼ができる。私は自分のことクソだって思っているけれど、尊厳を持って殺されることなく生きていきたい。今の生活だとそれが少し難しい。だけどIDLEを見てると、この行き詰まっている人生にも選択の余地があると思える。私は選び取ることができると思える。とにかくアイドゥルは全部かっこいいし全部かわいいし全部セクシーなチーム。

 

私はきっとよく考えるということができなくて連想ゲームに似た思考をする。ある事柄を連想によって前後に繋げる。そのためある点では事実でもどんどんと逸れていき本質にたどり着かない。妄信の積み重ねというのが実際なのでそうなんだ〜くらいで受け止めてくれたら。無粋な注意書きだけれども。

 

ベスト字幕でお別れ。

Bye