好きなら好きなだけ遠いよ

ぶつくさと独り言

Nxde

Nxdeは奪われてきた女たちへのトリビュートだ。尊厳や機会を奪われてきた女性への。生活史が記されることのない数多の人々、そして大衆に晒され当然のように消費されてきた著名人への。固有名詞を出せばそれはマリリンモンローへの、スジンへの、CLCへの、そしてアイドゥル自身への。

 

 

リリース前夜

公式からインタビュー動画が出た。緊張の高まりと研ぎ澄まされた意識に、私も期待と不安を感じていた。彼らなら本当にしかねないと、絶対にしないとは言い切れないと思っていたから。したくないならしないだろうけど、しようと決めて同意したのなら実行すると思っていたから。どう感じるのかも、好き嫌いで判断するのかもわからないけれどそれが彼らの示したいものであるのなら、ただそれをそうとだけ捉えたいと公開を待っていた。I loveインタビューで語られた言葉はどれも多くの考えを与えたけれど、シュファの言に涙が流れた。私は誰をあてにするでもなく崇拝するでもなく、自分の中に支柱を持ち自分の中に生きる術を見つけたかったから。眼差していてそう思えた彼らが、人は独立した存在で、何であれ自身に対する決定の判断を他者に委ね放棄することを望まないと明言したから。


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アイドゥルのアルバムIシリーズ(I am, I made, I trust, I burn, I never die, I love)は彼ら自身について述されたものであるから常に主語のIが付く、という公式スペースで話されたことに考えたことがある。アイドゥルが他のKぽグループと異なる点は色々あるけれど、突き詰めればこれなんじゃないかと思う。常に主体が私である、主語が私であるということ。他者に作用させられた結果としての表装、K-POPでは不可避な筈だったこと。コンセプトという語によって擦られ続けてきた。だからこそ人はステージでの表出だけではなく、どう考えどう語りどう行動するのか内部(個人の道徳性)に目を向けようとした。

以前ヘイターがソヨンの英語表記や発音がおかしいという方法でTOMBOYを非難していると知りげんなりした。立て看板の字が汚いと主張することと似たような、すり替えの上で人を貶める方法だよ(トーンポリシング)。彼らの主張の本質と異なる部分で全てを非難しそれには意味がない又は十分な内容ではないと結論づける。人が変えることのできない属性によって他者から行動規範を固定化され不利益を被ることに、批判とエンパワメントを試みる曲を、表記も発音もおかしいからこんなのは価値がない偽物と言うのは文脈錯誤クレームだと一目瞭然だ。それこそwhat’s the loss to me yaだし、何を踏み躙り得るか想像し留まるだけの思慮もなくいたずらに言葉を放ち対話する気もないのなら、その悪意に止まることはないから際限なく貶めてみれば?ともなるよ。正当性の主張ですらなくただの難癖と人格否定だから。私はもう傷つかない。損なわれるものはない。けれどこう至るまでは傷つき続けてきた筈なんだよね。人を怯ませ罵りそれで黙らせてきた人間の前で。でもそれは私に値しない苦痛であると言えるようになった。私は私の姿が好きだから、踏み躙られても尊厳は傷つかない。生きていく中で奪われたくない。それは確かにI never dieからI loveへと続くテーマ。

 

Nxdeのスペクタル

ソヨンがNxdeで試みたことはあまりにも鮮やかで痛快で天晴れだった。最も知られる例として検索欄の保護がある。韓国語で女・子どもたちという意味のグループ名である彼らが、ヌードというタイトルで曲を出す。女(女児) ヌードで検索して出るのは裸体や盗撮ではなく、アイドゥルの活動画像と「変態はお前だ(卑しいのお前だ)」という歌詞の表示である。それが前アルバムにおいて女性性の客体化へのNOを提示し外した(G)を戻した理由だった。餌をばら撒きわざと欲望を煽りひろく人を引き寄せた上で「それは手に入らない」と突きつける。自分が誠実に主張するだけでは届かない批判の対象をむこうから自分に向かわせ、そして打撃を与える。ソヨンは彼らがしてきた同様に奪うのではなく手に入れられないようにした。手に入れられなくなってようやく思い知る。それはあなたのものではないし、所有し得ないということを。人の身体と精神、そしてその表出は当人のものでしかありえず、敬意を払うべきだと。私が私として生き獲得してきたものであり、私でなければ手に入れられないものであると。これは検索欄の効用に見られる性的消費抑止だけでなく、原則が消費行動の促進であるK-POP市場の持ち得る非尊厳性への批判と、適応への抵抗でもある。

その念を強く感じたのがレコーディングビハインドだった。アイドゥルは各人の特徴を活かし伸ばすためにソヨンがそれぞれ別の先生をあてがっている。会社が用意したというか、この産業の中での大きく安定した通る声を出す一定のノウハウは適用できる範囲が広い反面、その人自身の声の特性を削ぐ部分も多い。ソヨちはこんなにも豊かな特徴を持つメンバーの歌声が一時期皆似通い同じようになってしまったと話していた。だから早い段階で一律のボイトレを廃止した。録音は基本的にソヨンがディレクションする。彼が宝石と称する個々人の歌声ではあるのだけれど、ソヨンでないと引き出せない音色。それはアイドゥルの優越性でもある。他の人間はアクセスできない。

 

2022年のシンドロームことアイドゥルのベストステージを訊かれたら迷いなくMMAと答える。草の葉の一節「わたしは受容された勝者のためにだけ行進曲を奏しはしない、わたしは征服され、殺害された人々のために行進曲を奏する」そのものだったから。22年に彼らが行ってきたこと、彼らが主張してきたこと、彼らの舞台人としての矜持、その象徴のように思われたから。MMAステージは東京交響楽団定期演奏会に行った夜に観た。クラシックというのは好きな曲目は当然あるけれど、楽団ごとにまるで異なる響きでどのように解釈されて表現されるのかそのマッチングであるし、一夜で指揮者のジョナサンノット監督の表現ファンになってしまった。監督は記者会見で「真の音楽作りは即興性なくして成り立たない。リハーサルではどのように音楽を作るか方向性を決め、コンサートではただ演奏に没頭する。謂わばリスクを取るということ」と話していた。この言葉に真っ先に浮かんだのはアイドゥルだった。

 


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NxdeMVを初めて観た時具合が悪くなった。金を払いガラスケースを舐めるように見る人々は評価というより品定めの様相であったし、取り囲み携帯で撮影する衆は皆対象ではなくその液晶画面しか見ていなかった。ライブチャットに並ぶ悪意。それらの気持ち悪さと眼差しの暴力性。特にソヨンの映る配信には侮辱と猥雑な言葉しかなかった。これらの再現性は彼らにとって日常的に受ける行為であること、理性的な対話によって解決できる問題ではないことを示していた。では仕方のないこととして耐えるしかないのか。否。といえども対話可能性は低い、だからソヨンはNUDEでおびき寄せた。『Motherland:Fort Salem』というウィッチと呼ばれる能力を擁する女性による軍を主体とした家母長制がベースにあるドラマがある(マジで観てほしいディズニー+で観れます)(2023年追記 ディズニーはイスラエル支援を行っているため新規加入は勧めません)。軍の基盤となった100年以上生きる将軍がその特異な能力から生まれた地を離れても国境を越えても追われ迫害され続け家族も友人も殺されていくそれは私が戦うと決意するまで続いたと話す。でもそうなんだよね。傷つけられるなら辛いなら逃げればいい無視すればいい争う必要はない、そう思うよ。短期的には。そもそも何か特異な点があったとしても人が人とが、ましては自分を毀損しようとする存在と対峙するのはこわいよ。でも不毛な戦いを回避しても、相手は奪い続けるだけで、私は死ぬしかない。どうしたら奪われないのか、いかに権力に統治されないか。その答えを出し、エンパワメントと批判、報復を全てやってのけたNxdeのスペクタルは語りきれない。

変態はお前だ

忘れられないドラマのシーンがある。キューバ移民家族のシットコムOne Day at a Time』。不安障害やアルコール依存、人生における伴侶の存在や移民として生きること、セクシャルアイデンティティ、アタッチメント、差別について様々な悩みやプレッシャーにさらされながら人が生き、それから逃げ出したくなったり恥たりすることに真摯に向き合った最高なドラマなんだけど。「男よレイプするなは?」という言葉が出てくる。被害対象に気をつけるよう喚起する。それは確かに重要なことだよ。でも加害者、加害行為に対してそれをしないようにとは呼びかけない。被害者が気をつけていなかった、そんな格好をしているのが悪い、そんな道を歩いているのが悪い。でも被害者の過失じゃない。私達はきっと"気をつけるように"じゃなくて(加害する)「お前が悪い」って言ってほしかった。もし性被害に遭ってもあなたのせいじゃないって。学生の時も、そして大人になってからも。アイドゥルがNxrdでそれを行った幸甚は計り知れないよ。正直女として生きていて、性加害の脅威に直面しないでいられる人はひとりもいない。皆話さないだけで何らかの被害を受けている。日本では性犯罪の裁判の傍聴席は壮年男性によって埋まるという最悪な事実もある。


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(このエレナの後の母ペネロピの話まで含めてどうしても観てもらいたいので後日どうにかします。NetflixでOne Day at a Timeシーズン3 2話になるのでよかったら日本語訳付きで見てください。)

 

《注意》以下私の経験なのでフラッシュバックの恐れがある人や読みたくない人は飛ばしてください。未遂であり服を脱がされたり体を触られたりしなかったと付記しておきます。

高校生の時家の裏の暗い坂を歩いてたら後ろから走ってくる足音が聞こえてきた。姉かなと思って立ち止まって顔だけ振り返ったら知らない男がいた。ごめん、と一言だけいわれ何?と思ったら押し倒されて瞬時にまずい状況だとわかった。とにかくめちゃくちゃに身体を動かして抵抗した。上になったり下になったり視界が転げ落ちるようにぐるぐる回転して、声が全然出なくてでも叫ぼうとして、出てきたのは家そこなんだよ!だった。でも家のすぐ近くでこんな状況に巻き込まれて本当に家に帰りたいだけだった。どれくらい繰り返したかもう無理だと判断したらしく逃げられた。この揉み合いの中で膝を怪我して流血した。私は帰宅即ジャージに着替えて、トイレに入って膝の怪我を写真に撮った。この最悪な出来事を最悪な感情は目に見える形で残すべきだと思ったから。でも家族には言えなかった。きっと話すべきだったけれど。なぜ話さなかったのか今も説明できない。恥ずかしかったからとも、怖かったからとも、忘れたかったともわからない。でも隠したかった。このブログを知人が読んで家族に伝える可能性はなきにしもあらずだし、伝えてほしくはないけれど、Nxdeについて記事を書くなら誰にも言えずどこにも書けなかったことを書いてみようと思った。当時人は一人でも生きていける、反対に一人では生きていけないような状況に追い込んでおきながら、ほら一人では生きていけないだろうと誇る社会に呆れる、と豪語していたような生意気で世間知らずで浅はかな高校生だった。可愛らしくもなければフェミニンでもない。普段の性格特性を知れば、魅力的な女として認識されないし声をかけられることなんてない。でも黒髪ロング制服女子高生という記号だけで見られた。それでこんな目に遭ってる。私の自己認識はデミガールなんだけどそういうものを完全無視でただ「女」としてだけ強制的に認識されることがどれだけ乱暴で苦痛をもたらすことか。しかも逃れられない。アイドゥルはそういう苦痛を引き裂く人達なの。

 

制約と主体性

舞台装置としてのNxde内で幕・覆いは頻出する。緞帳は言わずもがな、ガラスケースに掛けられ彫像から引き抜かれる白い布。開示/非開示は当事者ではなく覆いを手にする他者の采配でしかあれないのか。その直後、彫像の真ん中に立つシュファが現れる。あまりに象徴的な緑のドレスの画。展示されるだけのオブジェクトじゃない。他者から望まれた姿で停止する彫像じゃない。私は私の輪郭を持ち、私は私を定義できる。アニメーション部分ではキャラクターによってブラインドが下される。非開示の選択。例の配信部分でソヨンは自ら服を脱ぐ。開示の選択。当たり前のことだけど見せることも見せないこともその人が決めることなの。配信で物理的に服を脱ぎ去ろうとするソヨンを見た時、だよね脱ぎたいよねと思った。メンズが上裸になってもまあそういう人もそういう時もあるよねで終わる。ステージ上であればボルテージがあがるしセクシーだともかっこいいとも言われる。興奮したり盛り上がって上裸になれるの能天気なマスキュリン仕草だねと皮肉を込めてあえて言いたい。

-男がそうするのがずるいというなら女も同じように脱げば

-いやずるいって誤りな上に矮小化して形容しないでくれる同じようにしたらsexualizeされるでしょ

-男が上裸になってもそうだよね性的に眼差される

-尊厳を傷つけられたり淫らとか不適切な扱いをされたり笑いを浮かべて拡散される?安全について本当に同じラインだと思う?

という仮想問答を一人でしてしまった。安全について気にせずにいられる強者であれるかどうかが性別によって大きく左右される事実。それらも踏まえて身体と精神の開示範囲や度合いは個々人の選択であるというのが示されていたように受け取れる。けれどアイドゥルもK-POP市場に身を置き会社に所属する労働契約を結んだ人の集まりであり、そこには確かな制限がある。書いた歌詞を突き返されたり、題の変更を求められたり、不適切な言動というものが定められている。アイドルコンテンツにゲームはつきもので、ゲームにはルールがあるけれど彼らは必ずと言っていいほど則らない。チーティングするし、ルールの改編を求めるし、怒る。私はそこが好きなの。一方的に指定された枠組みをそのままに受け止めないところが。力関係に対して対等であることを求めるところが。自分の声を発せないとは思わないところが。NHKねほりんぱほりんで、韓国芸能事務所社長の意見として欲しい人材は言うことをよく聞く人、会社の方針に従う人、自分を捨てられる人とつまるところ従順な労奴がほしいと臆面もなく話されていた。実際Adapted Childのように見受けられるKぽアイドルは多い。わかっていたことでも改めて聞くと怒りが沸いてくる。従順な労奴であることを要求する市場に対する反説というのもアイドゥル結成当初からソヨンが示してきていることだ。プデュで出会った友人は皆個性豊かであったのにデビューした先で100%発揮できていないようであり、私達は個性を中心としたチームをつくろうとしたと語っている。プデュ・アンプリティ・クインダムに参加し放課後のときめきではメンターを務めたソヨンはサバイバルモンスターと呼ばれている。マジで何じゃそりゃなワードだ。説明する際にサバ番出せばわかりやすいし、ソヨン自身もこれまでについて番組名を出すことあるけど、New visionでの「I know, I know art is not a competition(芸術は競争ではない)」という市場原理主義への反説が彼の本意であると思うから。その後に「idle is my masterpiece 」の詩が続くの、あまりに大きすぎる愛と確固な信念で聴く度にくらってしまう。今はなきユニバスのラジオコンテンツどぅるちなさい最終回で、シュファがメンバーと一緒にいると私は自由になれますと話していた言葉がずっと残っている。制約とその中での主体性が強く感じられるからアイドゥルのことが大好きです。

Now I draw a luxury nude」のソヨンパートがあるけどね、私は私の輪郭を描くそれを勝手に判断するな、姿を露わにしたいとか、その姿を他者が暴こうとするのはただの暴力、というのをすごく思うんだ。ソヨンが試みたことについて餌を撒き欲望を煽り広く引き寄せたと言ったけれど、ただこの人を知りたいという気持ちも暴力になり得るということを認識しなきゃいけない。アイドルを好きでいること、誰かを好きで応援する気持ち、好意は無条件にポジディブであり得ない。大切な人であっても、どうして消費していないと言えるだろうか、どうして暴力的な眼差しでないと言えるだろうか。ソヨンがNxdeで批判しているのは「尊厳ある一個人としてではなく目的における手段や物として人を扱うこと。それに無自覚又は疑問を呈さないこと、責任を問われないこと」であると思うから。

 

チョン・ソヨン

尊厳や機会を奪う構造・環境に対してindividualityは報復で有り得る。1曲の中でこれだけ多くの意味と価値を生み出すことができるものなのか。言葉によってそれを成し遂げている。ソヨンは言葉の有効性を信じている。言葉が変革をもたらすことを信じている。偉大なラッパーだよ。前にエンペラーに代わる言葉でソヨンを表したいと言ったけれど、Nxdeを聴いてからはこれしかない。偉大な詩人。

 

アルテジミア・ジェンティレスキ 『ホロフェルネスの首を斬るユディット』

I loveの歌詞カードは切手を貼る部分がある。切手シールも入ってる。メンバー1人ずつが写ってる5枚の切手に、66箇所のカード。私はこの空白を愛するよ。