好きなら好きなだけ遠いよ

ぶつくさと独り言

卵には色があるらしい

卵なんてみんな同じような形で同じような色で大きさが違うくらい、見分けがつかない。16期生の存在こそ知れど名前も顔もわからない私にとって彼女達は白く小さく均一な鶏卵であり、その殻の内側を想像するどころか個を個として認識できず卵はどこまでいっても種でしかなかった。だって卵を1パック買ったとして、その1つ1つに個性を見い出すことをしないでしょ、区別することができないでしょ。少なくとも私はそうだし。だけどそんな状態でもかろうじて知っていたのは、田口愛佳さんと武藤小麟ちゃん。でもそれは16期のシンボルとして、十夢さんの妹として認識していただけのただそれだけだった。あと初めて行った劇場公演、ヨシマサさんプロデュースの神曲縛り公演(2017/09/11)に叶ちゃんとなーみんが出演していたらしいけど存在すら覚えていなかった。けれど今になっては人並みに熱を上げて前田前田たっちゃんたっちゃん言うようになってるんだから。それもこれも卵が孵る瞬間を目撃したからだ。

 

ちょうど1年前。例のごとくtwitterの海で泳いでいると、16期合宿の動画が不意に目に入った。ただその呟きがどんなものだったのか覚えていないんだ。自分にとって重要だったのは、それに心動かされたという体験であり、ディティールがあやふやなんだ…これだったかな…??

 彼女のことも彼女の置かれた状況も何もかも知らなかったけれど泣いていた。歌が上手いひとではないけれど、そこに雄々しく立ち歌をうたうひとだった。菅井先生が話していたように当初播磨ちゃんはレッスンでも後ろの方にいてとても自信なさげにしていた。けれど合宿のなかで、教えのなかで、レッスンも最前列に立つようになって、先生の1番近くで学びを得よう、自己に臨み克己しようとする様子はあまりに劇的だった。今あるものを賭けて、自分を開放して力強く、まるで本当に卵の殻を破った雛鳥のようでその姿と声が何より美しいと思った。菅井先生がこんなにも柔らかく優しく笑うところを初めて目にしたし。播磨ちゃんは一見気が弱く内気に見えるけど現時点の能力や才能をまるっきり無視した強い欲というか強大な自我を持っているけれど、それは抑圧されていたんだと思う。菅井先生は播磨ちゃんの底知れなさとその抑圧されていたものとに気づいて指導していたのだと思うけれど、きっと想像以上に大きな羽で大きなはばたきだったんだろうな。私も合宿きっかけで劇場公演を観に行ったんだけど、初めてこの目で見た播磨ちゃんはめちゃくちゃ陽オーラを放っていて、、めちゃくちゃアイドルだった。まるで猛禽類の雛鳥。この人の羽はとても大きいし、鋭い嘴と爪があってとても強い。

 

16期合宿で1番印象に残っているシーン、それは田口先生が歌い出しでカメラを見て菅井先生にそういうの嫌だと言われていた場面。田口先生は楽曲世界の情景をありありと創り出すことができる人なのに染みついた器用さで様々な要素に気を配りすぎて歌に深く身を沈めることができていなくてさ。けれど最終日菅井先生が流した涙が全てだったね。本当に田口先生はAKBの申し子なんだ。小さい頃からAKBが好きで憧れてあんな風に可愛い衣装を着てステージで輝きたいと願う女の子というのは多いけれど、田口先生は限りなく善に近い信念体系であるAKBのその思想を理解し吟味し内在化させた上でイデオローグとしての特性を備えた稀有な人なんだ。1番最初に声を上げる人間、皆を先導し指揮する人間、聡く少女性とこどもらしさを持つ人間、情景世界を創り出すことができる人間。楽曲世界・歌詞解釈は感受性の比率が高く、踊りは身体技法・反復・解釈等のレイヤーによって形作られるけれど、劇場において劇的なパフォーマンスをするための核はイデオロギーだと私は思っている。だからこそ田口先生は特別な人なんだ。愛の色、薄明るく照らされたステージで光と陰の狭間、木漏れ日のような愛しさと憂愁とうらめしさがマーブルのように混じり合った田口先生の表現を見たときは息をのんだ。LODで見ていたから尚更その四角に切り取られた瞬間がモネの絵画のように思えた。

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修業中入った時は、だけど…で前田の美しい横顔をずっと眺めていようと思っていたのに、手前にいた田口先生の悲哀に満ちた表現があまりに痛々しく打ちのめされ深い悲しみの中にある人のそれで目が反らせなくなった。レツゴーでの愛の色は瑞々しさが滲み出ていたけれど、それとはまた違う強い切実さを内包していた。乱暴なことを言うけど、強い意思と若い身体があれば一点に向かうエネルギーとしての全力パフォーマンスは成立する。けれど悲哀のように深度も強度も多様なものは、方向ではとてもじゃないけど表現しきれない。田口先生は方向じゃなくて最早世界を生み出しちゃってるんだよね〜とにかく別格だ。

 

たっちゃんのどこが気になっただとか前田のこと最初は大嫌いだったとか叶ちゃんのパフォーマンスはねえとか香織ちゃんのここをリスペクトしてるとか、一人ひとり語っていけば話は尽きないけれど、ならばなぜ今まで文章にしてこなかったのかなぜ今なのかっていうことなんだよね。それは彼女達の輝きを語るにはあまりにも言葉が追いつかなかったし、その作業に費やす知識とエネルギーが私にはなかったからだ。けれどネ申すテレビの16期キャンプ回を観て、久しぶりに平穏なひとときの休息を感じた。そしてそれが戦士の束の間の休息であるようにひどく感じられた。レツゴーも終わり、昇格組と研究生組に分かれ、なぎゅ様と和泉ちゃんが卒業していって色んなものがいろいろと急激に変わっていったこの1年で、自分が眼差してきた16期について書き留めておきたかった。あのキャンプ場が比喩でもなく本当に16期の楽園だった。足並みを揃える日々。足並みを揃えるといっても、みんなと一緒に居たいがために実力より低い程度で人に合わせることではなく、16期においてはキャンプ場に向かうあの道すがらだなと思った。目指す場所があり、談笑しながらなんとなく固まって、駆け出す者もあればゆっくりと歩く者もいて。その塊の中で前にいようと後ろにいようとそれは能力となんら関係がなくて。ハイキングのようにみんなで目指すものだったんだ。実際には高く険しく過酷な環境で穏やかさとは無縁だったのかもしれないけれど、こんな風に感じるくらい連帯が強くて和気藹々としている人達だった。プールで容赦なく水をかけあったり転ばせたりさ。美波ちゃんが田口先生と播磨ちゃんにびしょ濡れにされて、なーみんがお姉さん口調でどうしたの〜と言うと、違うの違うのと美波ちゃんがいつものうわ言のような話し方で呟き、私が助けてあげるよ!と爽やかお兄ちゃんのずっきーが仕返しにバケツいっぱいの水を向こうにかけようとするも勢いよくその場にボトリと落ちただけでやっぱ駄目だった…としょんぼりしてるこの光景がマジ16期って感じ。往々にして同期というのは特別な情緒的繋がりがあるけれど16期は殊に強い。友であり同志であり家族であり。それが、結びつきの強いあるメンバーとは、というレベルでは他の期でもあるのだろうけれど、彼女らはみんなとそうなんだ。まるで18人姉妹のように。

 

だからこそ繋いでいた手が離れていく様を、空を切る様を、昨日までそばに居た人がそこにいない様を見ると余計に悲しくて。悲しくて悲しくて仕方なくなる。AKB劇場はカメラマンさんもスイッチャーさんも劇場という場所の特殊性を充分に理解した上で演出にシフトした仕事をしているけれど、遊び心というか粋な計らいをよくする。歌詞にメンバーの名があるとその人を映すんだ。チーム坂の歌い出しが"岬(みさき)へ続く道"なんだけどそこでたっちゃんこと田屋美咲(みさき)ちゃんを映したり、"先"と歌詞にあればさきぽんを映すって具合にね。先日庄司なぎささんが卒業した。学業のためとのことで発表即日の卒業だった。誰にとっても予想外で突然のことだった。しかも彼女は研究生の中でも人気も実力も申し分のない人で、地盤も固まりつつあったから尚更に。さながら訃報のように、なすすべもなく別れの言葉を伝えることもできず突然の知らせに混乱した。16期の中でも彼女がいちばんに愛情深い人だと私は思っているんだ。あまりにも愛情深く道徳心が強く、それでいて人を恐れ自己不信に苛まれながら揺れて苦悩して、柔い部分が剥き出しになってるのにそのために苦しむのに体当たりで向かっていくそんなところが好きだったんだ。迷いなく立場の弱い人に手を差し伸べるところも。だからみんなに優しくて安心を与えるなぎゅ様自身の心に平穏が訪れてくれればと思っていたけれど、そんな未来を見届けることはできなくなってしまった。…それでね、"渚"って歌詞が出てくるとやっぱりなぎゅ様が映されていたの。そばかすのキス、ライフセーバーのあの人と出会ったこの渚。アイドル修業中公演で踊っていた曲だけれども彼女は千秋楽を迎える前に卒業した。いつものお決まりはなくなって、他の部分と同じように日ごとに映される人は変わった。そのことが何より彼女の不在を強く感じさせられる箇所だった。他の子が映されるたびに言いようのない悲しさがあった。なぎゅ様の卒業から2週間後にあった修業中千秋楽、私は目頭が熱くなってしまった。"出会ったこの渚"で誰もいない空間が映されたんだ。ずるいよ、としか言えなかった。それはなぎゅ様の不在が顕になるというより、なぎゅ様もそこにいて一緒に千秋楽を迎えているようなそんな粋な計らいだった。だってその瞬間いつものだ!と思ったんだ。渚でなぎゅ様を映すいつものやつだって。 

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…本当に色んなことがどんどん変わっていくけれど、やな人間だから"あの日"の影を追ってしまうし、あの日のままでいてほしいと思ってしまう。でもそれは希望の明るさを目指して進む人と反対の方向で。結局のところあの日は過ぎ去るだけで、あの日を求めれば失い続けるしかない。皆が同じ卵から生まれるわけではないのだから、同じ空でも同じ軌道で飛ぶわけじゃない。そもそも白く均一だなんてことはなかったんだ。それまでは同じ色の同じ卵にしか見えなくとも、違う色の違う卵だったんだ。プリズムを通すと波長が分化していろんな色が見えてくるじゃん。いろんな色で見えてくる。プリズムというのは興味なのかもしれない。だって世間の人はこう言う、AKBはみんな同じ顔に見える。そんなことは絶対にありえないのに。卵にはそれぞれ色があり自我も環境も絶えず変わっていくし、それを心が硬化して停滞している私のような老人がしがみついてるわけにはいかないし、引き留められるはずもないんだ。あの日を求めるというのは、鳥の足を地面に繋ぐことや風切羽根を切ることに似ているのかもしれない。本人達も兄弟たちと育ってきた雛鳥だったあの日を求めてる節があるけれど、それでも飛んでいかねばならないし、どこへ向かうかは自分で決めなくてはならない。たとえ1人の道でもね。これは又聞きしたことだから信憑性が微妙だけど、鳥は全身の30〜40%が飛行に必要な大胸筋になっていて、ボクサーの減量のようなことを一生し続けないければならないと。さらに飛ぶためには換羽といって1年で全ての羽を生え変わらせる必要があり、そのために多大なエネルギーを消費すると。そして天敵もなく餌も豊富な環境にいると鳥は飛ばなくなり、飛ばなくなった鳥は巨大化していく。だから鳥は飛ばなくてもいいなら飛びたくないという趣旨の内容だった。何だか考えさせらるような話だけれど、人間も無菌でノーストレスな環境にいるとおかしくなるし、肥育された鳥、特にアヒルを見たときの奇妙で恐ろしい感覚を思い出してしまう。飛ばなくてもいいなら飛びたくないは、起き上がらなくてもいいのなら起き上がりたくないと同じなんじゃないか。そう言って起き上がらなきゃずっとベッドでゴロゴロしていられるかもしれないけど筋肉は弱り脂肪がつきやすくなり血液の循環は悪くなる。何もしないということが生体として機能が失われていくことが弱体化していくことが幸福であり望みであることなどあるのだろうか。ステージに立つ人間はどんなに苦しくとも飛ぶことが要求されるし、飛んでこそステージに立てる。だって劇場公演は息が切れて苦しいだけだから疲れるから、やらなくていいならやりたくないなんて言われた日にはどうしたらいいのかわからない。苦しさや辛さを強要したいわけじゃない、できるなら悲しみに濡れてほしくないし好きな人たちが倒れたり過呼吸になるくらい追い詰められたらするのは絶対にやだ。いつだって心おだやかで楽しく笑っていてほしい。でもアイドルを観て思うのは人の輝きの残酷な法則だよ。厳しい寒さの中で果実は甘くなり、草は踏みつけられた後に生い茂り、崖に咲く花は美しい。確かに秋元先生はミソジニーだし、AKBというか芸能界全体がミソジニーの蔓延した世界だけど、倫理とかその他諸々含めて適切な環境だとは言い難いこともわかっているけれど、それでもそこで思想を持ち重さに負けず甘言に惑わされず自分の信じた希望の明るさに向かって飛ぶ人は美しいし応援したくなる。ま、そういうことだよね。正規メンの美しい飛翔や慣れて卒なくこなしちゃう感じもいいけれど、やっぱ私は毎日毎日飛ぶ練習をして飛行技術が少しずつ上がったり反対にその累積の中である時急に飛べるようになったりとか感動と輝きが物凄い研公が好きなんだ。今は昇格した16期がどんな飛翔を見せてくれるかも楽しみだしね。とにかくチケセンの神様目撃者に入れさせてください〜

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じゃあ再见!