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好きなら好きなだけ遠いよ

ぶつくさと独り言

シンパシー

もううんと昔、小学生の頃にビュフェ美術館を訪れた。静岡県のクレマチスの丘にある(静岡、ときくと思い出してしまう人がいる)。この時も例にもれず、早川先生の絵が展示されるため家族全員で観に行ったのだ。でも私は先生の絵があまり好きじゃなかった。両親をはじめ周囲の大人が手放しで称賛するから、そこに違和感を感じてしまって、作品とは関係ないところで作品が嫌いだった。天邪鬼というかつむじ曲りだったんだよね。まあ、単純に好みでなかったというのも少なからずあるけどさ。それで、先生の絵はささっと観て早々にビュフェの展示へと向かった。


そこで出会ってしまった訳だよ。ベルナール・ビュフェに。勿論彼自身にではない、彼の作品に。でもそれは彼に会ったと同義だ。悲哀と虚無に満ちているのに挑戦的で力強くて。薄暗い照明の中、描かれている人物の生気を感じられない白さだけが浮かび上がっている。笑わないピエロの不気味さ。ビュフェの絵を見て最初に抱いた感情は"怖い"じゃなくて"好き"だった。彼の絵には問いかけがある。小さいながらもその問いかけに気づいて怖くなかったんだよね。そしてある絵に頭を打たれる。


1949年,21歳の時に描かれた『肉屋の少年』

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【灰色の人物が細長い両手を腰にあてポーズをとっている。奇妙に彎曲した親指をもつ片方の脚を台に乗せている。皺が刻まれた額と厭世的な表情は少年のそれとはかけ離れている。視線の先には彼よりも大きな肉塊がぶら下がっている。命を失っても存在感のある物体と、覇気を奪われ壁に同化しそうな生きている肉体。存在の不安と不条理の描出はサルトルカミュの思想と共通するものがあり、「実存主義の画家」と呼ばれた所以である。】


大きな豚の皮の隣に立ちポーズをとる少年。その表情は憔悴しきっていて若々しさは微塵も感じられない。生きている生身の人間より死んで肉塊となった豚の方が存在感がある、生命力を感じる、それが衝撃的だった。しかも彼はポーズをとっているのだ。この豚を開いたのは彼なのかもしれない。それでもこのポーズは征服感より滑稽さを感じる。広げられ吊るされている豚はどこまでも受動的であるがその姿には威厳すら見受けられる。一方で少年はどこまでも能動的でポーズまでとっているが惨めな虚栄に映る。私はなんだか自分がこの少年と同じなんじゃないかと思ってしまって、今の今までそれを拭えずにいた。しかも、去年横浜のランドマークタワーをバックに写真を撮ってもらうことがあったのだけれど、その時にこの少年の姿がよぎった。無機物の建物と有機物の私、大きい小さい、圧倒的な存在感と頼りのない自分の姿。まだ私は肉屋の少年を脱せていないのだ。だけど、肉屋の少年ではない人なんているんだろうか。槙島聖護が言っていたように、誰だって虚ろなのかもしれない。


大学の書評レポートの課題図書の中に「存在の耐えられない軽さ」があった。タイトルに惹かれて前々から読んでみようと思っていた小説だった。うろ覚えだけど確か男女の関係がメインだった気がする。存在の耐えられない軽さ、存在の耐えられない軽さ、存在の耐えられない軽さ。


存在の耐えられる軽さなんてないよ。