好きなら好きなだけ遠いよ

ぶつくさと独り言

墓場探訪記

若さとは純潔を愛するものだ、と私は思う。心にもない綺麗事は言いたくない、間違ったことは見過ごせない、権力には屈しない、自分に正直でありたい。こどもじみた青臭い正義を掲げる。幻想なき理想主義とはよく言ったものだが、青年の理想とは幻想に他ならない。青年は、在りし日の理想を失った大人を軽蔑し憐れみ自分はああはならないと固く誓うが、その大人も昔は同じように誓いを立てたと気づいてしまう日が来るんだ。それはいかほどの絶望か。日野陽子はその絶望に身を蝕まれていた。絶望からの脱却、理想、そして自己実現のために彼女は自殺したのではないか。

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先日、10月16日Gロッソシアターにて舞台『墓場、女子高生』昼公演を観劇してきた。以下がその概要である。


『墓場、女子高生』は、「死者との決別」を題材にした作品。1年前に自ら命を絶ち、幽霊となった女子高生が、墓の近くで授業をさぼっている彼女の友人たちが行った怪しい儀式によって生き返ったことから展開される物語を描く。

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「いつでも思い出し笑いできるような出来事が、確かにいくつもあったんだけど…、」

 
学校の裏山にある墓場で、合唱部の少女達は今日も授業をサボって遊んでいる。墓場にはいろんな人間が現れる。オカルト部の部員達、ヒステリックな教師、疲れたサラリーマン、妖怪、幽霊…。墓場には似合わないバカ騒ぎをしながらも、少女達は胸にある思いを抱えていた。死んでしまった友達、日野陽子のこと。その思いが押さえきれなくなった時、少女達は「陽子のために…」、「いや、自分達のために」とある行動を起こす。

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万理華さんが座談会で話していたように、日野の自死の真の要因というのは定められているが、観客にはついぞ語られることがない。一人ひとりが日野の死の理由について考え、それぞれの結論・解釈を見出す。その過程が何よりも大切なのだと思う。みんな違ってみんないいじゃないけどさ、そこには正しさや望ましさ優劣はないんだ。レッドリバーバレーの和訳が様々であること、合唱部の面々が日野をそれぞれ違う呼び方で呼ぶことは、私達観客も日野ちゃんを、この舞台を、各々好きなように捉えてくれ、そういう意味合いも込められている気がする。何が言いたいのかというと、あなたが私の話を気に食わなくてもコイツはこう捉えたんだなって位に受け流してほしいというお願い。あとは、私も日野ちゃんを自分の呼び方で呼びたいから、日野君と呼ぶことにするというお知らせ。それでは前置きが長くなりましたが、どうぞ。

 

日野君は、合唱部のみんなにとってイデオローグ的存在であったのだと思う。軽薄そのものの女子高生達の姿。進むべき方向は日野が示してくれるし(死がまだ消化できないし)、将来に対する漠然とした不安なんて気にせず楽しめばいい、だってそれが青春なんだから!そんな風に言わんばかりの騒ぎよう…先日、映画『台風クラブ』を観てみたんだ。死は生に先行するという日野君の台詞の引用元だったから、自死の糸口を掴めるんじゃないかって。あの年頃の少年少女というのは軽薄でふしだらで不道徳で短絡的で暴力嗜好が強く規範から外れようとするとんでもない存在なんだよ。だけど、青春の名の下、大人も子供もその異常性を正当化する。狂ってる、みんな狂ってるんだ。その狂気が今回の舞台にも充満していた。私は最後まで観ていられるか不安になった。嫌な感じだ、気持ちが悪い、駄目なんだ苦手なんだこういうの、背筋がぞっとする、耐えられない、耐え難い。これこそ腐臭ではないか。

そう、それで、話を戻そう。カリスマにより未分化されていた合唱部は、指針を失いバラバラになってしまったわけだ。今までずるずると逃げてきた自分自身に向き合わなければいけなくなる。

 

《西川》井上小百合

ニッシーが合唱部を離れたのは、6人でいることがヒノチの不在を実感させるから、それは受け入れ難いことだから、自分の無力さと責任を知るから。だからオカルト部へと転部し、生き返らせたいという想いと武田部長という新たな指針に盲目的に従うことでどうにか心の平衡を保っているように感じた。だって理系の人だぜ、オカルトなんて非科学的であると鼻で笑いそうなのに。部長より知識が豊富である(例えば悪魔は仏教用語であると説明していた)ことを鑑みると日野君を生き返らせる事を目的としてオカルト部に入った事は明白であろう。武田とは、生き返らせるため・他に一緒にいる人がいないから行動を共にする。完全に利害関係にあるのだ。そして、仲間であった合唱部の面々はオカルトなんてものに傾倒する、謂わばおかしくなってしまったニッシーを腫れものでも触るかのように扱うのだ。日野の親友(と自負していた)西川が、種類は違えど日野のように孤立を深めていったのは何の皮肉か。

 

《メンコ》能條愛未

ドランカーのメンコちゃん。いい音を立てて缶ビールを開けるとぐびぐびぐび。いい飲みっぷりです。あれ、様子が変です。なんだか具合が悪そう。ああっ吐いてしまいました。んんんん、なんてことでしょう、バケツの中の吐瀉物をみんなに見せたくて追いかけ回し始めました…とおふざけは大概にして、メンコには、汚い醜いと称されるものを直視する強さがある。そしてなぜ汚い醜いと定義されているのか疑問にもつ賢さもある。どうして赤子の吐瀉物は触れられるのに、私だと駄目なの?よごれてしまっているから?歳を重ねるとは、大人になるとは、不浄な存在になるということ。腐っていくこと。日野君が受け入れられないかったことをメンコは甘んじて受け入れる。いや、来る日に向けて腐臭に鼻を慣れさせているのか。少女なら頬を赤らめ恥じらい目を逸らしなさいと言われたにも関わらず、私も女じゃけえと真っ直ぐ見つめた時、この人は何でもかんでも真っ向から立ち向かいすぎだと思った。腐っていくことに関しても日野の死に関しても。メンコは最後まで日野を生き返らせることを渋っていた。日野の望むこと、日野がどうして自殺したのかがぼんやりとでもわかっていたから。メンコが日野君を馬鹿にしていたのは単に服がダサいからというわけじゃないよね、日野の理想にしがみつくその姿を小馬鹿にしていたのかもしれない。そんなんじゃ大人になれないよ。そんなんじゃ生きていけないよって。そんな風に思っていた日野が自殺してしまったものだから、、メンコはたぶんエリート気質なんだな。もし日野君と孤独を分かち合える人が居たのなら、それはメンコのような気がする。

 

《チョロ》樋口日奈

失うことへの恐怖。それが日野の死がチョロにもたらしたものだった。大切な人が突然目の前からいなくなる、ずっと続くと思っていたものが突然終わりを告げる。ナカジがダメ元で恋人のタッペイに告白することを頑なに嫌がるのはそういうことなんだろう。人の心は移り変わってゆくもので、永遠などない。終わりの予感に敏感になっているチョロは、生き返った日野君が再び姿を消してしまうと感覚的に気づく。寝たら駄目だよ、またピノがどっかいっちゃうよ。アイドルの卒業を経験したファンのように見えなくもない。いやだいやだずっとここにいて、あなたにいてほしいんだ。卒業しないでくれ。とても素直で感情的な子だ。チョロの乱暴な口調というのは、それでも離れていかない人だけが周りにいてほしいから、虚勢の表れなのだろうか。

 

《ジモ》鈴木絢音

ジモちゃんは、からっぽというか背景がないというか何だかわけのわからない子だなという印象だった。そうしたら、絢音ちゃんが座談会で"もしかしたら心の成長が、みんなよりちょっと遅れている子なのかなあ、と思っていて。だから単にお調子者ということではなく、自分の気持ちがわからなくて揺れているところもある"と語っていて合点がいった。死んだ犬の名前をあだ名として同級生につける。まだ死という概念がないわけではないけど、幼い子どものように理解ができていないみたいだ。そんなジモちゃんがエピローグでね、、はあ、絢音ちゃんがこのまにまに揺れ動く未発達な人格を演じ上げる姿には脱帽だよ。すごいよ絢音ちゃん。流石 Take a risk なアイドルあーちゃんだぜ。

 

《ナカジ》斉藤優里

隣の席だった高校の生徒会長もこのあだ名だった。中島だからナカジ。おい、こっちはポエマーだよねと言われたの根に持ってるんだからな中島。まあ、それでナカジはキャピキャピしてるよね。テンション高くて声が大きくて表情がコロコロ変わってスカートの下にジャージを履いてて。いるよ、いる。こういう女子高生いる。絶対的女子高生感。一年前まで高校生だった私が言うんだから間違いない(間違っている)。ナカジは友人チョロの恋人タッペイに告白しようとする。振られるのはわかってるよ、それでも告白するの。なんでも白黒つけたい、ハッキリさせたい人みたいだね。なのに日野の死だけはもやもやもやもや自分の中で燻っている。自分の事ブスブスいうのも可愛いね、本当はそこまでブスだと思ってないよ!とか。ジモちゃんと昇竜拳の応酬してたところが好きだな。

《ビンゼ》新内眞衣

ヘッドホンをして一人すました顔でいるビンゼ。一緒に遊ぼうよ、合唱部に入ってよ。本当はひとりが寂しいくせに友達がほしいくせに臆病だから強がっちゃって誘いを断る。何聴いてたのと言われ答えなかったのに、興味ない人と1秒も一緒にいられない私たち〜♪いい歌詞だよね私も好き、なんて日野君が言ったらすぐに懐いちゃってさ。人との関わりを遮断するヘッドホンで聴いていたのが『デリケートに恋して』だったのが、いつかこの状況から救い出してくれる人がいると信じている乙女チックな理由とひとりでいるのは私がそうしていたいからという強がりによるものなのが本当に可愛い。日野君もそんな年頃の少女らしい臆病さと世界に期待を持っているビンゼを可愛いらしいと思っていたんだ。そしてビンゼは、新しい世界を見せてくれた日野君に敬愛の念を抱く。なのに、自殺するなんて。自分だけみんなより日野ちゃんといた時間が少ない、自分は彼女に救われたのに救う事ができなかった。後悔の念がビンゼを襲う。みんな違うでしょ!私もそう!日野ちゃんの為じゃない、自分の為なんだよ。私は私の為に日野ちゃんを生き返らせると啖呵を切り、はたから見れば馬鹿馬鹿しい蘇生の儀式に参加するのだ。ビンゼもまた正しさを愛し偽らざる人だったのである。

 

《武田》伊藤純奈

オカルト部の部長、武田様。現状に不満を持つがゆえにオカルトに縋る所謂ぼっちの人。自分に意地悪してくる男子に、鼻の穴が一つになりますように、鼻水が滝のように出続けますようになんて呪いをかけている。この子も寂しがり屋だ。そんな彼女が勇気を振り絞って私も日野さんと仲良くなりたいヒノペチーノって呼ぶねなんて泣きそう。いくつもの卒塔婆を背負って孔雀みたいに登場しきたりとかなりのイロモノキャラだけど純奈は演じきってくれていた。普段から人を笑わせる努力をしている彼女だからこそこんなにぴったりハマっていたのかなと。

 

《日野》伊藤万理華

日野ちゃんのあの歪んだ天真爛漫さが私は好きだ。彼女は永遠に穢れを知らぬ少女でいたかったのだと思う。けれど、学生は一人前の大人になることを社会から要請されている。少女でいられる時間も終わりが近づいていた。世界は腐っていると話した西川に、そうだともと言い切った日野。だが、「私の目が腐っているから、世界が腐って見えるんじゃないかって心配だったの」という西川の台詞。もしも子どもの目が美しい目であるのなら世界は美しく見える筈だ。だが、日野ら女子高生の目に映るのは、世界のありのままの姿。美しく見えるフィルターはどこかになくし、世界の真実を映すその目も次第に腐敗してゆくのだ。

 

やさしさに包まれたなら きっと 

目にうつる全てのことは "不快な" メッセージ

 

不快なメッセージを受け取るのは、大人に近づいている証拠だ。西川はメッセージを受け取りはしたが、その内容を読み解けてはいない。一方日野は、随分前から受け取っているそのメッセージを熟読している。同時にそれは腐敗の始まりと進行を意味する。自らの目が腐っているのではないかと案じていた西川に「お前は美しいよ、ニッシー」と言った日野。あまりにその声音は慈愛に満ちていた。そしてあまりに悲哀を含んでいた。悩ましい少女の姿、その悩ましさの正体に気づいてしまっている己の身。「お前は美しいよ、ヒノ」と一番言われたい彼女なのに、そう言ってくれる人はどこにもいないのだ。もう日野は決めていた、美しいままに死ぬと。来る日に向けて着々と準備を進める。誰にも気づかれぬよう、しかし足跡を残しながら。『Red River Valley』の和訳を西川に頼んだのもその一つであった。英語が得意なんだから自分でやればいいのにと言われた時の苦し紛れの言い訳。日野は自身に一番近い距離にいる西川に最後を飾る手向けとして、そして歌う事で思い出して欲しかったのかもしれない。記憶の中で永遠に美しい存在として。死への予兆はビンゼとの出会いの場面にも見られた。合唱部へ勧誘する際に歌った『誰も知らない私の悩み』選曲は主に日野が担当しているようであるし、誰も知らない私の悩みというのは、腐敗構造に身を置かざる我が身を嘆きこのまま腐り社会のリソースと化すか、尊い筈の命を自らの断つ事で美しく存在証明を追求すべきかという苦悩。加え、「興味ない人と1秒も一緒にいられない私たち」の歌詞が好きだという発言。腐臭を放つ世界には1秒だっていられない。あるいは、真理の追求もせずモラトリアムを消費していくだけならばあなた達を残して私は行くという合唱部員への言伝。

更には、観客に死を色濃く印象付けたあのシーン。腐った大人になりたいんですどうやったらなれますかと日野に泣きついた冴えない会社員高田。その肩を両の手で掴み、日野は何かに取り憑かれたような口調で厳かに語り始める。「死は生に先行するんだ。死は生の前提なんだ。僕たちには、厳粛に生きるための厳粛な死が与えられていない」引用元の映画『台風クラブ』ではこのセリフにはまだ続きがある。「だから俺が死んでみせる。みんなが生きるために」三上君と日野ちゃんの自死の原因が同じであるとは思わない。しかし二人には類似点が多いのだ。そして劇中三上君はこんな問いを投げかける。

「個は種を超越できるのだろうか?種は種の個に対する勝利だって聞いたけど」

彼の兄はこう答える。

「多分それは、鶏と卵だな。個というのが鶏で、種は卵だろ。個としての鶏が種としての卵を超えるというのは、鶏が、鶏の経験が次に産んだ卵を新しく作り変える時であろうから」


そして日野は、桜の木で首を吊った。彼女が、彼女の死が、周囲に気付かれたのは、死体のひどい腐臭によってだった。銀杏の木でなくて良かった臭かったら私気づかれなかったもんと墓場で話した彼女の明るい口調が絶望をまざまざと表していた。厳粛に生きるための厳粛な死を残された者へと与えた筈であったのに、結果的に彼女自身が"不快なメッセージ"となってしまったのだ。この事実に気づき、私は泣くしかなかった。ああ、なんてことだ。なんてことだ…これを悲劇と呼ばず何と呼ぼうか。しかし、死することによって彼女は永遠の少女になった。最後の姿は、決して美しいとは言えなかったかもしれないが、残された者の生に影響を与え、自身は記憶の中美しい存在として永遠になる。だが、幽霊としてこの世に留まる彼女は本当に厳粛な死を獲得したと言えるのだろうか。そこなんだよ。プレポルさんが述べていたように"幽霊になった日野が冒頭から出演し、観客に見えている、という状態は、彼女の死のインパクを弱めてしまっていた"のだ。しかし、この状態というのは1度目の自死は厳粛な死でなかったと観客に提示する演出だとは考えられないだろうか。腐敗した世界のエアーポケットの中で日野は透明な存在として"生かされて"しまっているのだ。不可抗力とはいえ、幽霊としてこの世に留まり存在することを受容する姿に詰めの甘さを感じた。でも、きっと、そう、日野ちゃんは、お山の大将でしかなかった。たぶん本来の彼女というのは観客の私たちが思うような高尚な人間ではないのだろう。本人が演じていたのか、それとも周囲の役割期待によるものなのか。前者…であろうか。西川と二人で話している時、日野がいつものように知恵を授けるが如く歌い出したじゃない。そこで西川が言い放った「私、知ってるよ。ヒノチの言葉ってたまに何の歌でもないよね」一瞬で凍りついた日野。取り繕っていた虚像を見破られた。もっともらしく威厳を保つために歌からの引用として語っているのか、それとも本心を無防備に曝け出すことに躊躇があり引用として語るのか。それは何とも言えない。そう、それで、私たちは日野ちゃんをカリスマだとかエリートだとか他と一線を画す存在に見がちだが、納見が言っていたように彼女も所詮社会を知らぬ小娘なのだ。規範に擦り寄れなかったんだ。大人になることから逃げたんだ。私は彼女を貶めようとしているのではない。だって私自身も彼女を高尚な存在として崇めているからだ。しかし、確かにそのような面はあるんだよ。日野ちゃんが印象管理しているのは事実だ。そして、幽霊となった日野にはもうその必要もなく、妖怪と幽霊と戯れの日々を過ごす。厳粛さはどこにもない。女子高生と同じ、ただただ軽薄な姿。

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そして日野は蘇生の儀式により生き返る。「なんで…なんで勝手に生き返らせたりなんかするの!」短き永遠はピリオドを打たれてしまった。憤慨された合唱部の面々は頭を垂れ謝罪する。じゃあ帰っていいよ、と言う。おい、そんなあっさりとなんて突っ込みたくなったけど、彼女たちは構わずに墓に日野を押し込んでいる。が、失敗。また死ななきゃね、とか言い出す。「死ぬって大変なんだよ!苦しいことなんだよ!」再び憤慨。合唱部の面々は、日野の不在に葛藤するが厳密にいえばそれは彼女の死についてではない。彼女らは日野を失った自己に対して葛藤しているのだ。即ち、自己に対する内発的な葛藤。ビンゼはこれに自覚的であった。しかし、これを公言することを偽らざる正しさとして認識してしまい、先の命題にたどり着かなかった。割り切れない思いがあり、言葉や所作といった表層に浮上するもので判断できないと理解しているつもりでも、どうしても彼女たちの発言は軽骨であるように感じるのだ。まあ、実際無分別ではあるのだけど。

 どうして私たちに何も言わずに死んじゃったのという問いに対し、日野は、うんこするのにこれからうんこしてきまーすなんて言う?言わないでしょ。と吐き捨てる。これは「みんなは私の死んだ理由にはなれないよ」と併せて、死は極めて固有のものであり、他者の介在はあり得ないということを顕著に示している台詞であった。そして、日野の死は彼女の生理であり、そうであること(=死)以外ありえなかったのだ。私は、日野に強く共感してしまった。あまりに死生観が似通っていたからだ。いつか話したように死に憧憬を抱いていたからね。彼女の死んだ理由は私の死にたかった理由なのでは、とまで思ってしまっている。感覚的にわかるんだ。どうして死んだの?なんて無粋なことは訊かれたくない。最も私的で最も固有で最も美しい秘密をなぜ人に説明しなければいけないのだろう。本当のことを言うとねここまでのこんな文章は、こじつけに過ぎない。言葉をこねくり回しているだけなんだから。わかる、としか言えないんだから。盛大な勘違いかもしれない。私ってよく自分がこの世界でただ一人その人の良き理解者だって思い込んでしまうことがあるから。李徴然り、ホールデン・コールフィールド然り。ごめんなさいね、お見苦しいところを見せてしまって。さて、"世界を美しく定義したい"これが日野の望みである。醜き腐った世界というのはあり得ない。世界を醜い腐っていると認識する自己があるだけだ。世界とは認識であり、認識とは自意識である。言い換えれば、世界とは自意識なのだ。若さは、世界をどうとでもできるんだ。そして日野は合唱部の面々に自分の死んだ理由を美しく定義させる。純然たる事実として日野の死を自己に落とし込む作業。死者との決別はここで成されたのだ。日野は自己を意識する度合いが強かったために絶望の度合いも強く、自身を美しく定義できなかった。だが、皆に定義し直されたことで日野の存在とその死は厳粛なものへと昇華していった。山彦と真壁が述べていたように、存在の持続には、私が私であるという意識のほかに他者からの承認が必要なのだ。厳粛である日野が為すべきことは、状態としての死に立ち戻ること。そこでようやく厳粛な死を獲得するのである。だけど、彼女が次にどんな行動をとるのかなんてわかっていたはずなのに、悲しくて切なくてどうかいかないでって思ってしまったんだ。その先はかなりの衝撃を受けた。

 

桜の木からぶら下がる人の形をしたなにか。おおよそ生きている人間では見ることのないあのアンバランスなシルエット。日野だ。あれは日野だ。ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん。不安定に揺れる。死体が揺れている。皆叫ぶ。声にならない声で泣き叫ぶ。怖いときは歌を歌おう。涙でぐずぐずになりながら、歌うあの歌。

卒業式。合唱部は「レッドリバーバレー」を歌う。皆晴れやかで清々しい表情。ああ、彼女らは卒業できたのだな。日野からの卒業。

エピローグ:あんなに賑やかであった墓場も今はビンゼとジモのふたりしかいない。それぞれ日常への回帰やモラトリアムからの脱却を試み、厳粛な生を生きているのだろう。そして、ふたりは本名を明かしあう。あだ名という記号を与えられた集団の成員から一個人として根源的な自己に立ち返るのだ。さようならが言えなかったビンゼはさようならを言い、去る。失うことがわからなかったジモは失ったものに寄り添う。いつか忘れちゃうって話してたよね。でも、ビンゼのさようならのポーズ,ジモがのどを鳴らし飲むコーラは日野の面影を色濃く映していた。もし、思い返すことが出来なくとも忘れてしまっていても、日野は彼女たちに影響を及ぼし彼女たちの中で生き続けるのだ。永遠の少女、日野陽子。あなたは美しい。

 

 

私の解釈は以上だ。しかしね、日野の死は美しくありたいという極めて私的なものに収まらないもののような気もするんだ。腐った世界において腐臭を引き受け、つまり、イエスの如く原罪を背負って死に、イエスの如く生き返った。迷える子羊の導き手となるように。日野の魂は限りなくイデアに近いものだったのかもしれない。

我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる。

つまり、真の認識とは「想起」(アナムネーシス)にほかならない、と言うのである。そしてphilosophia(=愛知)とは「死の練習」なのであり、真の philosopher(愛知者)は、できるかぎりその魂を身体から分離開放し、魂が純粋に魂自体においてあるように努力する者だとした。この愛知者の魂の知の対象が「イデア」である。
イデアは、それぞれの存在が「何であるか」ということに比較して、「まさにそれであるところのそのもの」を意味する。

 ………日野が幽霊として墓場に住まう、とはまさに肉体を持たぬイデアであったということなのでは。やはり、もう一次元上の話であったか。当方のような浅学菲才では到底辿り着けぬ真理であるようなので有識者の方にお頼みしたい。日野陽子におけるイデア論を交えた墓場女子高生の考察・解釈をお願いします。いや、イデア論と容易に結び付ける事自体が浅慮であるのか。上記の文章もwikipediaからの引用だし。そうだとしても、個人的に興味関心があるので是非ともお願いしたい。

 

いやはや、要点をまとめ簡潔に述べられぬ人間であるとは自覚していたがここまで長い文章になるとは。もしここまで読まれた方がいましたら、大変お疲れ様です。こんな駄文にお付き合い頂いて、すじょいせん。ええ、すじょいせん使ってみたかっただけです。許してください………許されます。私は当初この舞台を観劇する予定はなかったのだが、ありがたいことにお誘いを受けて観劇の運びとなった。はるぼうさん等には感謝しかない。そして、御三方が「推しじゃないのにまりかにはどうしても目がいく、惹きつけられるんだよな」と話していたことが、自分の事のように嬉しかった。自慢げな顔をしていただろうな。そうだ、そうなんだよ、私の応援している万理華さんはいつでも輝いていて、いつでも可愛くて、いつでもかっこよくて、いつでも刺激を与え、いつでも人々を魅了し、いつでも私たちの想像なんて軽々と超えてきてくれる人なんだ。伊藤万理華を見よ!なんて言ってしまうくらいにはね。追いかけてもそこに伊藤万理華はいない、それでも彼女を追いかけていたいんだ。追いつかないとしても、その背中を見つめていたいんだ。それに追いかけた場所にいないのなら、いつかは先回りだってしてみたい。日野陽子を演じる万理華さんを観れた私は幸せ者だ。それでは、そろそろサヨナラのお時間です。最後は『Red River Valley』でお別れです。

 

谷間を去るあなたの

輝く瞳と笑みは

なにもかもを連れてゆく

わたしだけを残して

そばにおいで あなたよ

ひきとめたりはしない

ただもう一度レッドリバーバレー

最後に歩く小道

 

悲しいとか 寂しいとか

どれだけ傷ついたとか

今はまだわからない

今はまだその途中

谷間を去りあなたは

次の暮らしを見つけ

思い出のレッドリバーバレー

わたしだけを残して

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