好きなら好きなだけ遠いよ

ぶつくさと独り言

いつもの夏とは違うんだ

8月30日、私は神宮球場にいた。
通路の壁に背中をぴったりとくっつけ体操座りで耳を澄ましていた。とても幸せで、心地がよくて、このまま穏やかな眠りについてしまいそう。ああ乃木坂がすきだなあ。

その前日、ひどい仕打ちを受けて心が沈んでいた。その人はひと回り年上の女の人で、私にとても興味を持って色々と質問をしてきた。頭のいいひとだ。その人との話はとても面白かったけど、なぜだか最後には決まってあなたと私は似てる、と言うんだ。そこに違和感を感じ始めて、彼女からの誘いをきっぱり断った。そうすると、それはあなたの為にならないと巧みな話術で考え直すように迫ってくる。それでも、首を縦には振らなかった。次第に態度が変わってくる、嫌悪感丸出しの顔をしてる。彼女には私を救うことができない、私には彼女に救われるつもりがない、とわかったら、途端に攻撃してきた。彼女に言わせると、私の人生は破滅しかないらしい。結局彼女が私に対してよくしてくれてたのは、自分の為だったんだ。過去の自分を救うために、私に自己の投影をしてたんだ。そうだとわかってるのに、そんな人間の言う事なんて気にしなければいいのに、人格を否定されてとても傷ついた。家に帰るまでに気を抜いたら泣いちゃいそうだ。でもその日は幸か不幸か雨だった。小雨の中傘をささずに渋谷駅を目指す。涙のしずくは隠せても目の赤さは隠せないのにね。

次の日、起きて洗面所で顔を洗い目を上げた時鏡に映る自分の姿が憔悴しきっていたのがかなしくて笑えてきた。まぶたはひどく腫れ、瞳は生気がないのにどこかギラギラしてて、クマがくっきりと浮かんでる。髪は乾かさないで寝たためボサボサで、顔は土みたいな色をしている。だけど、神宮の物販へ行こうとそれだけの気持ちで、よくわからないラーメンの汁のシミみたいなのがついている白い小汚いTシャツを着て家を出た。

(実はこの日は本来なら高校の友人達とBBQをする予定だった。夏らしいこと、大学生らしいことなんて一つもない夏季休業だったからいつもは断る誘いも今回はOKした。だけど台風の影響でそれが中止になり都内で食事でもという方向になった。なんだかそこで気持ちが冷めてしまって、電車が止まったりしたら帰れなくなるとか適当な理由をつけて幹事に不参加の旨を伝えた。神宮に行きたかったから)

その後神宮に到着し4時間物販待機列に並んだけど少し手前で買いたいグッズが売り切れた。ついてない。ダルメシアン柄浴衣。結局何も買わずにブースを出て、行くあてのない私は今野さんオススメのパスタ屋さん麦小屋に来た。一番奥のカウンター席に座り、『たらこと大根おろしと大葉』を頼む。店内はどこか懐かしさを感じるポップチューンが流れ、マスターはそのリズムに合わせて料理している。お待たせしましたと目の前にさしだされたたらこパスタを一人無言で頬張る。もちもち、もちもち、うん、おいしい。美味しいものを食べ、お腹が満たされると嫌な気分というのは晴れてくるものだ。ようし、やっぱり伊勢丹コラボのバケットハット買おう、被っていた男性ファンがいたけどかっこよかったしな、なんて再び物販会場に向かう。もう開演15分前だからスッカラカンだ、列さえできてない。ものの30秒で会計を済ませたら、足は自然と球場の方へと向かっていた。だが、当然のごとくチケットは持っていない。無券というやつだ。私は今まで一度もアーティストのライブに行ったことがないのだけど会場からの音漏れを聴く人がいるということは知っていた。そう、だから、音漏れを聴くことにした。

コンコース、と言うのだろうか。外側の通路に近くの建物からの反響で音がはっきり聞こえるポイントがあった。先客達は壁際にぽつぽつ等間隔に座っていて中の様子に思いを馳せているようだ。それに倣い間に入って座ってみる。ひとりぽっちなのは私だけみたいだ。みんな2人か3人、あるいは待ち人がいるようだった。だけどそれに対して寂しさを感じる訳でもなくライブが始まるのがただただ楽しみだった。この日は神宮バースデーライブ最終日、10枚目の『何度目の青空か?』から始まるはずだ。この曲は私にとって特別なものなんだ。乃木坂らしいと称される『君の名は希望』,『羽根の記憶』,『悲しみの忘れ方』,『今、話したい誰かがいる』,『きっかけ』を初めて聴いた時ぼろぼろと涙が溢れて嗚咽をあげて泣いたが、一番泣いたのはこの曲だった。当時私は高校3年生で、家庭学習期間なんてものを消化して卒業していくだけの状態だった。そんな時に聴いたもんだから、校庭の端の誰かが閉め忘れた蛇口、同じように僕の心の片隅にも出しっぱなしの何かがあると語る主観に対して自己を重ね合わせてしまって、ああ私の青春はこのまま終わっていくんだ、青春を見逃してしまったんだ、もう取り戻せないなんてわんわん泣いてしまった。乃木坂に救われた私に傷を与えていった曲という意味で特別なんだよね。まあ、そんなのはいいや、神宮最終日は『何度目の青空か?』に始まった。聴いてるだけだ、彼女達の姿なんて一切見えない。だけど、生田さんが一人逆光の中強烈な存在感を放ちながら登場し会場を沸かしている光景は容易に想像し得た。これは何空に限ったことではない。見えない分、違う感覚が鋭くなったのか彼女達がどうしているのかがわかるんだ。頭の中の彼女達も輝いている、会場で3万5千人を魅了してる彼女達も輝いている。

そうしていくうちに興奮より安心を得て、とても穏やかな気持ちになった。嫌なことは全部忘れられた。本当に彼女達のことが好きで好きでたまらないんだ。癒しや甘えの中に逃げ込んでいるのかもしれない。それでも、私にとって乃木坂が救いであるということだけは確かなんだよ。 

…金曜日から大学が始まった。社会学の授業で教授は人間は社会的な存在だと繰り返し話す。自己同一性というのも、人間が社会的な存在である故に他者との関係の中で自分について考えなければいけなくなる。大勢の中の一人、ほかでもない自分自身について。そう、そして、自分以外のものを引き合いに出さなければ自分を説明できない。人のアイデンティティなんて唯一無二の何かで構成されているわけではなくて、継接ぎみたいなものなんだろうね。私にとって乃木坂は継接ぎの面積も大きいし丈夫で綺麗だし重要な箇所にあるんだ。今の私について説明する時、最も有効な手段というのは乃木坂について語ることだ。だけど、初対面の人だったり無遠慮な人にはあまり話したくないんだ。とっても私的で敏感で大切なことだから。以前は1日の8割を乃木坂について考えていたりもしたけど、今は生活の中に静かに浸透していって、乃木坂について考える時間は減ったけど、いつだって彼女達の存在が支えになっているし、(私みたいな冷めていた人間が言うのもおかしな話だけど)心の中にいるという感じがするんだ。乃木坂について知っていくことが自分を知っていくことなんだと思う。

ーそして、今年初めて花火を見る。そう8/30の神宮球場でだ。柱の間から見えたあの花火が大袈裟でなく、今まで見てきたどの花火より綺麗だった。乃木坂を好きになって初めて迎えた夏。いつもの夏とは違うんだ。18歳の夏はもう終わる。

シンパシー

もううんと昔、小学生の頃にビュフェ美術館を訪れた。静岡県のクレマチスの丘にある(静岡、ときくと思い出してしまう人がいる)。この時も例にもれず、早川先生の絵が展示されるため家族全員で観に行ったのだ。でも私は先生の絵があまり好きじゃなかった。両親をはじめ周囲の大人が手放しで称賛するから、そこに違和感を感じてしまって、作品とは関係ないところで作品が嫌いだった。天邪鬼というかつむじ曲りだったんだよね。まあ、単純に好みでなかったというのも少なからずあるけどさ。それで、先生の絵はささっと観て早々にビュフェの展示へと向かった。


そこで出会ってしまった訳だよ。ベルナール・ビュフェに。勿論彼自身にではない、彼の作品に。でもそれは彼に会ったと同義だ。悲哀と虚無に満ちているのに挑戦的で力強くて。薄暗い照明の中、描かれている人物の生気を感じられない白さだけが浮かび上がっている。笑わないピエロの不気味さ。ビュフェの絵を見て最初に抱いた感情は"怖い"じゃなくて"好き"だった。彼の絵には問いかけがある。小さいながらもその問いかけに気づいて怖くなかったんだよね。そしてある絵に頭を打たれる。


1949年,21歳の時に描かれた『肉屋の少年』

f:id:ziishiki:20160823213408j:plain

【灰色の人物が細長い両手を腰にあてポーズをとっている。奇妙に彎曲した親指をもつ片方の脚を台に乗せている。皺が刻まれた額と厭世的な表情は少年のそれとはかけ離れている。視線の先には彼よりも大きな肉塊がぶら下がっている。命を失っても存在感のある物体と、覇気を奪われ壁に同化しそうな生きている肉体。存在の不安と不条理の描出はサルトルカミュの思想と共通するものがあり、「実存主義の画家」と呼ばれた所以である。】


大きな豚の皮の隣に立ちポーズをとる少年。その表情は憔悴しきっていて若々しさは微塵も感じられない。生きている生身の人間より死んで肉塊となった豚の方が存在感がある、生命力を感じる、それが衝撃的だった。しかも彼はポーズをとっているのだ。この豚を開いたのは彼なのかもしれない。それでもこのポーズは征服感より滑稽さを感じる。広げられ吊るされている豚はどこまでも受動的であるがその姿には威厳すら見受けられる。一方で少年はどこまでも能動的でポーズまでとっているが惨めな虚栄に映る。私はなんだか自分がこの少年と同じなんじゃないかと思ってしまって、今の今までそれを拭えずにいた。しかも、去年横浜のランドマークタワーをバックに写真を撮ってもらうことがあったのだけれど、その時にこの少年の姿がよぎった。無機物の建物と有機物の私、大きい小さい、圧倒的な存在感と頼りのない自分の姿。まだ私は肉屋の少年を脱せていないのだ。だけど、肉屋の少年ではない人なんているんだろうか。槙島聖護が言っていたように、誰だって虚ろなのかもしれない。


大学の書評レポートの課題図書の中に「存在の耐えられない軽さ」があった。タイトルに惹かれて前々から読んでみようと思っていた小説だった。うろ覚えだけど確か男女の関係がメインだった気がする。存在の耐えられない軽さ、存在の耐えられない軽さ、存在の耐えられない軽さ。


存在の耐えられる軽さなんてないよ。


国立新美術館の最寄駅

私が初めて国立新美術館を訪れたのは昨年2015年の2月、父が心酔していた早川先生が名誉会長を務めていた新槐樹社の招待券を貰ったのでその公募展を観に行ったのだ。(本当の事を言うと小学生の時家族でゴッホの展示を観に来たのだが火曜日で休館だった笑)ちょっぴり退屈な公募展を鑑賞し終わったけれどこれで帰るのは勿体ないと思っていたら、ちょうどその期間文化庁メディア芸術祭が開催されていた!最先端テクノロジーを見の前にして子どもみたいに目をキラキラさせてもう興奮しっぱなしだった。メディ芸と建物のデザインも相まって国立新美術館は私の中で聖地認定された。

そう、あの頃の私にとって乃木坂駅は大好きな国立新美術館の最寄駅。乃木坂46っていうアイドルグループがいるけどオタクっぽい人見かけないなあ、なんて乃木坂が劇場を持たないということさえ知らなかった。メンバーだって生駒ちゃんと白石さんしか顔と名前が一致する人がいなかった。西野さんと深川さんを同一人物だと思っていたくらいだし。2期生の存在なんていないにも等しい。

アイドルに関心がなく寧ろ否定的な立場にいた私がなぜ乃木坂を好きになったのか?それには今はまだ話せない複雑な事情があるが、彼女達に心を救われた、とだけ言っておく。乃木坂の彼女達は恩人であり尊敬の対象だ。けれど知っていくにつれて恩人としてじゃなくてアイドルとして惹かれていった。

アイドルってとてもロマンティックな存在なんだよ。グループを離れることを意味する"卒業"と対応してアイドルでいる期間は"青春"と呼ばれるけれど、この青春は自覚的である上に自分で終わらせなければいけない。残酷なように思われるけど、アイドルがそうでありたいと思う自身の偶像を永遠のものにする事ができる。美しい想い出にする事ができる。ああ、やっぱりちょっと哀しいかも。終わりが来ると知っているからこそアイドルは輝く。本当に蛍みたいだ。その輝きは命を燃やしてるんじゃないかってくらいで、一挙手一投足が美しく意味深で目が離せない。そして実際に何かしらの意図を孕んでいるんだから驚きだ。メンバー同士の関係性や出逢いも運命的だしドラマティックだ。無粋だけれど私はそれらを注意深く観察することに喜びを見出している。

乃木坂の彼女達の多くは想像力の欠如した周囲の人間によって少女期に心の柔い部分をぐちゃぐちゃにされている。彼女達には傷つけられた人間の美しさがある。こんなに人の心を掬い上げてくれるアイドルはいない。だから乃木坂46が好きなんだ。

だけどね、そう、散々私は乃木坂に救われたから恩義を感じてるとか言ってるけど、そんな恩人達に雀の涙程度の金銭的援助しか出来ないしそんな事でもしないと会えなくて握手会だって一方的に満足してるだけだし、何にも彼女達のために出来ないんだよ。そう考えたらCD買う意味ってある?と思えてきた。救われたからという理由でファンでいるのはつらすぎる。与えられるばかりで奪うばかりで消費するばかりで壊すばかりで。何一つ返せないのは心苦しい。自身も傷ついていた彼女達に救われたくせにアイドルを楽しむようになって能天気に生きてさ。薄情というか恩知らずというか。 

そうやって勝手に暴走して悲しくなっていた私にも心境の変化が起きましてね

ここ最近は目まぐるしいほどの情報に置いていかれてる。ブログも歌番組、写真集もチェックできていない。でもこれでいいんだと思う。先日とても美しい生き方をする人を知った。その人を見て私は乃木坂に救われたという事実それだけでもう充分だと考えるようになってきた。CDは1枚位は買うけど握手はせずミニライブだけをしっかり目に焼き付け会場を後にする。彼女達にできる恩返しというのは乃木坂と出会いどれだけ人生を豊かにして貰ったのか伝える事だと思うから、彼女達のファンとして素敵な人だと思ってもらえるように教養を身に付けたいし、文化的でありたい。
(でもやっぱりちょっとは握手会に行きたいという気持ちもある)

これがね乃木坂に対してのスタンスなんだけど、在宅の人になら分かってもらえそうだけどそれ以外の人には、は?って感じだろうし、自分でもお前敬虔なクリスチャンかよと思うし。いや敬虔なクリスチャンについてはよく知らないからただのイメージだけど、禁欲的であるという意味と、あとは偶像崇拝ってことで。まあアイドルのファンとしてヲタクとしての在り方なんて人それぞれだし、こういう奴もいるって知って貰いたいだけなんです。私がアイドルを好きだと知らずにここまで読んでくれた人はこいつガチだガチヲタだとか思って震えたかもしれないけど、君も好きなものや尊敬の対象には真摯でありたいと思うでしょそれと一緒だよ(?)あと、これだけは言っておくけど私はあくまでファンであってヲタクではない。

最後に、文体も定まらず脈絡のない話を始めるこんなブログを最後まで読んだあなたはとても忍耐強いと思います、持久力があります。良かったら次も読んでみて下さい。それではこの辺で、さよなら。





台風一過

人と喋るとき私の頭の中は軽くパニックになる。口内が渇きを感じてどうやって声を発するんだっけとわからなくなるしけれど相手の顔はじっと見てしまう。そうするとゲシュタルト崩壊というか急に吹き出すくらいおもしろくなる。顔の美醜によってじゃないよ人間の顔って可笑しなもんだなあって。そこでやっと口を開く。


「うん、そうかもしれないね」


そんなこんなで思考がいろんな所に飛びまわってあんまり真剣に話を聞けない。うまい返答もできない。一旦感情や思考を文字にしないと原稿なしのスピーチみたいにぐたぐだになっちゃう(だから人と話すのは嫌いだ、好きなんだけど嫌いだ)。でもtwitterだと文字制限もあるし、まとまりのない内容を要約するって点ではいいんだけど、言いたいこと全部言えないんだよね、うん。だからブログを始めてみようと思った。そう、うん。前置きが長くなったけどそういうことだから、まあ、よろしく。


薄々気づいているだろうけどタイトルの台風一過は言いたかっただけ。


このブログでは話したいけど話す人もいない事柄とか整理出来ずぐっちゃぐちゃな心情とか、あっ!あとはアイドルについてを綴っていきたいと思っているわけで。ここまで言葉を羅列してきて意外と楽しいので飽きるまで続けていくつもりです。


それではこの辺で、さいなら。