読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

好きなら好きなだけ遠いよ

ぶつくさと独り言

シンパシー

もううんと昔、小学生の頃にビュフェ美術館を訪れた。静岡県のクレマチスの丘にある(静岡、ときくと思い出してしまう人がいる)。この時も例にもれず、早川先生の絵が展示されるため家族全員で観に行ったのだ。でも私は先生の絵があまり好きじゃなかった。両親をはじめ周囲の大人が手放しで称賛するから、そこに違和感を感じてしまって、作品とは関係ないところで作品が嫌いだった。天邪鬼というかつむじ曲りだったんだよね。まあ、単純に好みでなかったというのも少なからずあるけどさ。それで、先生の絵はささっと観て早々にビュフェの展示へと向かった。


そこで出会ってしまった訳だよ。ベルナール・ビュフェに。勿論彼自身にではない、彼の作品に。でもそれは彼に会ったと同義だ。悲哀と虚無に満ちているのに挑戦的で力強くて。薄暗い照明の中、描かれている人物の生気を感じられない白さだけが浮かび上がっている。笑わないピエロの不気味さ。ビュフェの絵を見て最初に抱いた感情は"怖い"じゃなくて"好き"だった。彼の絵には問いかけがある。小さいながらもその問いかけに気づいて怖くなかったんだよね。そしてある絵に頭を打たれる。


1949年,21歳の時に描かれた『肉屋の少年』

f:id:ziishiki:20160823213408j:plain

【灰色の人物が細長い両手を腰にあてポーズをとっている。奇妙に彎曲した親指をもつ片方の脚を台に乗せている。皺が刻まれた額と厭世的な表情は少年のそれとはかけ離れている。視線の先には彼よりも大きな肉塊がぶら下がっている。命を失っても存在感のある物体と、覇気を奪われ壁に同化しそうな生きている肉体。存在の不安と不条理の描出はサルトルカミュの思想と共通するものがあり、「実存主義の画家」と呼ばれた所以である。】


大きな豚の皮の隣に立ちポーズをとる少年。その表情は憔悴しきっていて若々しさは微塵も感じられない。生きている生身の人間より死んで肉塊となった豚の方が存在感がある、生命力を感じる、それが衝撃的だった。しかも彼はポーズをとっているのだ。この豚を開いたのは彼なのかもしれない。それでもこのポーズは征服感より滑稽さを感じる。広げられ吊るされている豚はどこまでも受動的であるがその姿には威厳すら見受けられる。一方で少年はどこまでも能動的でポーズまでとっているが惨めな虚栄に映る。私はなんだか自分がこの少年と同じなんじゃないかと思ってしまって、今の今までそれを拭えずにいた。しかも、去年横浜のランドマークタワーをバックに写真を撮ってもらうことがあったのだけれど、その時にこの少年の姿がよぎった。無機物の建物と有機物の私、大きい小さい、圧倒的な存在感と頼りのない自分の姿。まだ私は肉屋の少年を脱せていないのだ。だけど、肉屋の少年ではない人なんているんだろうか。槙島聖護が言っていたように、誰だって虚ろなのかもしれない。


大学の書評レポートの課題図書の中に「存在の耐えられない軽さ」があった。タイトルに惹かれて前々から読んでみようと思っていた小説だった。うろ覚えだけど確か男女の関係がメインだった気がする。存在の耐えられない軽さ、存在の耐えられない軽さ、存在の耐えられない軽さ。


存在の耐えられる軽さなんてないよ。


国立新美術館の最寄駅

私が初めて国立新美術館を訪れたのは昨年2015年の2月、父が心酔していた早川先生が名誉会長を務めていた新槐樹社の招待券を貰ったのでその公募展を観に行ったのだ。(本当の事を言うと小学生の時家族でゴッホの展示を観に来たのだが火曜日で休館だった笑)ちょっぴり退屈な公募展を鑑賞し終わったけれどこれで帰るのは勿体ないと思っていたら、ちょうどその期間文化庁メディア芸術祭が開催されていた!最先端テクノロジーを見の前にして子どもみたいに目をキラキラさせてもう興奮しっぱなしだった。メディ芸と建物のデザインも相まって国立新美術館は私の中で聖地認定された。

そう、あの頃の私にとって乃木坂駅は大好きな国立新美術館の最寄駅。乃木坂46っていうアイドルグループがいるけどオタクっぽい人見かけないなあ、なんて乃木坂が劇場を持たないということさえ知らなかった。メンバーだって生駒ちゃんと白石さんしか顔と名前が一致する人がいなかった。西野さんと深川さんを同一人物だと思っていたくらいだし。2期生の存在なんていないにも等しい。

アイドルに関心がなく寧ろ否定的な立場にいた私がなぜ乃木坂を好きになったのか?それには今はまだ話せない複雑な事情があるが、彼女達に心を救われた、とだけ言っておく。乃木坂の彼女達は恩人であり尊敬の対象だ。けれど知っていくにつれて恩人としてじゃなくてアイドルとして惹かれていった。

アイドルってとてもロマンティックな存在なんだよ。グループを離れることを意味する"卒業"と対応してアイドルでいる期間は"青春"と呼ばれるけれど、この青春は自覚的である上に自分で終わらせなければいけない。残酷なように思われるけど、アイドルがそうでありたいと思う自身の偶像を永遠のものにする事ができる。美しい想い出にする事ができる。ああ、やっぱりちょっと哀しいかも。終わりが来ると知っているからこそアイドルは輝く。本当に蛍みたいだ。その輝きは命を燃やしてるんじゃないかってくらいで、一挙手一投足が美しく意味深で目が離せない。そして実際に何かしらの意図を孕んでいるんだから驚きだ。メンバー同士の関係性や出逢いも運命的だしドラマティックだ。無粋だけれど私はそれらを注意深く観察することに喜びを見出している。

乃木坂の彼女達の多くは想像力の欠如した周囲の人間によって少女期に心の柔い部分をぐちゃぐちゃにされている。彼女達には傷つけられた人間の美しさがある。こんなに人の心を掬い上げてくれるアイドルはいない。だから乃木坂46が好きなんだ。

だけどね、そう、散々私は乃木坂に救われたから恩義を感じてるとか言ってるけど、そんな恩人達に雀の涙程度の金銭的援助しか出来ないしそんな事でもしないと会えなくて握手会だって一方的に満足してるだけだし、何にも彼女達のために出来ないんだよ。そう考えたらCD買う意味ってある?と思えてきた。救われたからという理由でファンでいるのはつらすぎる。与えられるばかりで奪うばかりで消費するばかりで壊すばかりで。何一つ返せないのは心苦しい。自身も傷ついていた彼女達に救われたくせにアイドルを楽しむようになって能天気に生きてさ。薄情というか恩知らずというか。 

そうやって勝手に暴走して悲しくなっていた私にも心境の変化が起きましてね

ここ最近は目まぐるしいほどの情報に置いていかれてる。ブログも歌番組、写真集もチェックできていない。でもこれでいいんだと思う。先日とても美しい生き方をする人を知った。その人を見て私は乃木坂に救われたという事実それだけでもう充分だと考えるようになってきた。CDは1枚位は買うけど握手はせずミニライブだけをしっかり目に焼き付け会場を後にする。彼女達にできる恩返しというのは乃木坂と出会いどれだけ人生を豊かにして貰ったのか伝える事だと思うから、彼女達のファンとして素敵な人だと思ってもらえるように教養を身に付けたいし、文化的でありたい。
(でもやっぱりちょっとは握手会に行きたいという気持ちもある)

これがね乃木坂に対してのスタンスなんだけど、在宅の人になら分かってもらえそうだけどそれ以外の人には、は?って感じだろうし、自分でもお前敬虔なクリスチャンかよと思うし。いや敬虔なクリスチャンについてはよく知らないからただのイメージだけど、禁欲的であるという意味と、あとは偶像崇拝ってことで。まあアイドルのファンとしてヲタクとしての在り方なんて人それぞれだし、こういう奴もいるって知って貰いたいだけなんです。私がアイドルを好きだと知らずにここまで読んでくれた人はこいつガチだガチヲタだとか思って震えたかもしれないけど、君も好きなものや尊敬の対象には真摯でありたいと思うでしょそれと一緒だよ(?)あと、これだけは言っておくけど私はあくまでファンであってヲタクではない。

最後に、文体も定まらず脈絡のない話を始めるこんなブログを最後まで読んだあなたはとても忍耐強いと思います、持久力があります。良かったら次も読んでみて下さい。それではこの辺で、さよなら。





台風一過

人と喋るとき私の頭の中は軽くパニックになる。口内が渇きを感じてどうやって声を発するんだっけとわからなくなるしけれど相手の顔はじっと見てしまう。そうするとゲシュタルト崩壊というか急に吹き出すくらいおもしろくなる。顔の美醜によってじゃないよ人間の顔って可笑しなもんだなあって。そこでやっと口を開く。


「うん、そうかもしれないね」


そんなこんなで思考がいろんな所に飛びまわってあんまり真剣に話を聞けない。うまい返答もできない。一旦感情や思考を文字にしないと原稿なしのスピーチみたいにぐたぐだになっちゃう(だから人と話すのは嫌いだ、好きなんだけど嫌いだ)。でもtwitterだと文字制限もあるし、まとまりのない内容を要約するって点ではいいんだけど、言いたいこと全部言えないんだよね、うん。だからブログを始めてみようと思った。そう、うん。前置きが長くなったけどそういうことだから、まあ、よろしく。


薄々気づいているだろうけどタイトルの台風一過は言いたかっただけ。


このブログでは話したいけど話す人もいない事柄とか整理出来ずぐっちゃぐちゃな心情とか、あっ!あとはアイドルについてを綴っていきたいと思っているわけで。ここまで言葉を羅列してきて意外と楽しいので飽きるまで続けていくつもりです。


それではこの辺で、さいなら。