好きなら好きなだけ遠いよ

ぶつくさと独り言

BBB

人生は変えていける。私は選び取ることができる。この言葉から始まる歌と、その詩を書き、そして歌う人たちを信じたいというのが第一。ほんとMVを開き第一小節目の音から良すぎて思わず口の端上がっちゃった。その直後小雪さんの声にさらに上がる口角。

 


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환상들은 fake, 현실은 달라ね。なんかこの歳になって一層あるのは自分の生活だけで、他はどうでもよくなったというか、運動して本を読み映画観て住居を清潔に保ちたまにプール行って山に登って食べたいものを作ってそして寝る。ただこの毎日を積み重ねたい。住んでいる街も家も大好きだからあとは本当に仕事だけどうにかすれば人生に望む全てなのになとぼやいていたけれど、人生をfixするために今机に向かい始めてる。環境の変化もあるしBBBを聴いてマジでそうだよなと思ったのも大きい。私も人生を変えるために頑張ろう〜って。日々の積み重ね、生活の積み重ね、そうしていくうちに少しずつ変わっていくと運動を始めてわかったし。236運動療法としてぽつぽつしていた筋トレにプラスでランニングを始めたら気持ちが上向くようになった。当初は目標体型や体重はなくただ自分の精神状態のためにしていた。今は元気になって体の形を気にする余裕というかこういう体つきになりたいという欲まで出てきた。運動するってなんていうか自分をケアできるようになった、私が生きていくことを肯定できるようになったということで、だから続けられている。たぶん今まで生の肯定を受動しエンパワリングされる側でしかなくて、そういうものに出会えるだけで貴重で信じ難い幸運だけれど、ようやくその主体が自己であれるようになった。人並みに何かを頑張れるようになったくらいじゃ望む結果というのは得られないかもしれないけれどsometimes works, sometimes doesn’tって感じでめげずに続けていきたいよ。

낭만 같은 소리를 찾고 있어

その気持ちがというより自分の甘すぎる姿勢が恥ずかしいのだけれど、高校生の時日芸の写真学科に進みたいという気持ちがあった。両親にぼそぼそと話したら、趣味が写真で私にカメラを貸してくれて聞けば教えてくれた父親でさえ笑ってた。まともに取り合われることなく一笑に付されてそれで終わり。私はずっとそれについて被害者面してたし、写真学科に行けていたらどう生きていたんだろうもっと生きやすかったんだろうかと夢想することもあった。だけどKぽ観始めてからは全く思わなくなった。だってぐずぐず言ってないで、本当にしたいことなら笑われたって反対されたって何としてでもするべきだし、できただろうから。それを実際にしてきた人達を前に世迷言はいえないから。けれど10代の未熟な私を庇ってやるなら、私は選べると思ってなかった。人生をしたいようにできると思っていなかった。思っていないというだけで、本当は選べるのに選ぶことができなかった。強烈な思い込みというか10数年生きてきた中で培われた規範意識から外れることができなかった。ドラマmineに狭い門にはさまれ涙を流す象の絵が出てくる。購入者のソヒョンが作者にどうしたらこの象は門を出られるのでしょうかと尋ねると、門は元よりなく象はどこへでも行けるのに閉じ込められていると思い込んでいるだけと返ってくる。そんなものはないんですよと言われたところでそれによって苦しみ且つ守られている人が即座に自由に動けるようになる訳じゃないし、自分でそのことを理解し受容しなければ難しいのだけれど、BBBで行ってること(= Secret tip)ってその手助けなんだと思う。人が自由であることの。イレさんのMy pleasureに毎度あざっすって声出してる。私は選べるんだって人は自由なんだって理解できたの本当にここ数年の話で、人が当たり前に理解し経験して幼年に学んだり生来備えている物事の側面を二歩も三歩も遅れをとって今学んでる。学生の時より働き出してからそのことを伝えてくれる人や作品に出会っている。濱口竜介監督『親密さ』の中で「暴力と選択」という詩がある。できることなら映画内で出会ってほしいけれど、上映場所や期間・配信プラットフォームが限られており、この文章を読んでいる人には知ってほしいから書き起こしておく。親密さを観た日から私は自分は選べないとはもう思わない、人にもそうは思わせないとただ決意し、それによって人の形と尊厳を保って生きていられている。

暴力と選択

 

暴力とは何かとずっと考え続けてきた

最近ようやく答えの一つが導き出された気がする

選択肢を与えないこと

もしくは選択肢がないと信じさせること

つまりは選ぶという人間精神の根本的な自由を否定し奪い去るもの

それが暴力だ

このことで身体的な次元にとどまらない暴力まで説明できる

身体的な暴力が否定されるべきは基本的に二点ある

それが人を不可逆的に損ない選択不可能性であるところの死へと近づけるから

もしくはまたそうした身体的な暴力が未来における選択の可能性を狭める

もしくは狭めるように要求するからだ

人に選ばせない 選ぶことができると信じさせない力

それが暴力だ

それは身体的な暴力にとどまらない

言葉と関係による精神の暴力があり

運命の暴力もまたある

しかし一般に暴力と思われているもの

それを世に放っただけで暴力は暴力になるのではない

この世には放たれた不完全な暴力が漂っている

それはもはやそれを吐き出したのが誰かもわからないような

常に着床の機会をうかがう暴力の胞子だ

我々に選べることは少なくとも二つある

一つは少なくとも自分はできる限りその胞子を吐き出さないようにすること

もう一つは自分がその胞子を着床させないということだ

極端なことをいえば人を殴ることは必ずしも本質的な暴力ではない

殴られた人間が自分を被害者だと感じたとき

自分は不当な影響力の下に置かれたと感じたときにのみ

暴力は完全な暴力となる

このことからある種の喧嘩や体罰が必ずしも暴力ではないという現実的な事態が説明できる

ちなみにもしそれが人に死をもたらすものなら

選択の可能性を奪うそれはそれ自体で成立する暴力だ

誰かを殴ることはもちろん暴力の胞子を吐き出すことだ

それが悪意に基づくものならそれはかなりの確率で着床するだろう

しかしそれはまだ完全な暴力ではない

それはまだ人の選択を奪い去りはしないからだ

このとき被害者然と振る舞う人々

彼らこそが実は暴力を完全なものとするのであり

彼らもまた暴力の担い手なのだと言ったら彼らは驚くだろうか

自分たちはただ暴力の純粋な被害者だと彼らは訴えるだろうか

彼らは言うかもしれない

そんなことは選べない

だって私は殴られたのだから

そんなことは選べない

だって私は罵られたのだから

そんなことは選べない

だって私は傷ついたのだから

しかし単に人を傷つけることは 人に傷つけられることは

それがいずれ癒えるならそれはまだ暴力ではない

人は全てを選ぶことができる

何かを選ばないことも

ただ一つ選べないのは選べないということである

その時人はもう既に何かを選んでいるからというトートロジーだけが問題ではない

人が選べないと口にするそのときに

自らの精神から選択を奪ってしまうならば

そのときに人は自らの内に暴力を育てているのだ

自らの精神から選択を奪ってしまうならば

彼女は知らず知らずのうちに自らに暴力をふるう

そして彼らが暴力をふるうのは実は自らに対してのみではない

彼らは自分自身を通じて全ての人間に暴力をふるう

このとき暴力は単なる胞子であることを超え根を張り大地へと侵食する

人は何度でも選ばなくてはならない

なぜ選ばなくてはならないのか

暴力が奪い去ることならば選択とは与えることだからだ

選ぶことはいつも過去から未来へと向けられている

選ぶことは信じることと同義である

すでに確かな何かを信じることはできない

不確かな何かを信じ未来へ向かう力を与えることが選ぶということの本質だ

もし人が互いに不確かなまま出会い

それでも互いを未来へと向けて選び合うなら

互いに力を与え続けることもできるはずだ

それは信じ合い選び合う力だ

ただ暴力だけは選ばないための力だ

暴力も暴力の胞子も もうなくなりはしない

ただ私達はいつもそれを選ばないことを選ぶ

 

 

 

Kぽも最初は会社が資本の回収のために若者を酷使してるのに人の美徳や振る舞いについてコンセプトといって語るの形骸的だし寒々しいと思っていたけども、大事なことは繰り返し何度だって誰の口からだって発されるべきだし、多ければ多いほどいい。そう考えが変わったのは違うグループの話になってしまうけれどQueendomでのLOONAButterflyを見てだった。削ぎ落とすこともアレンジすることも不必要でこれ自体がすでに完成形であると認識されるButterflyを選ぶという凄さに。私は私であるという自己の、価値の再構成を行うための選曲だったから。作用させられた結果ではなく彼らが信じる価値を勝ち取る構築のプロセスだったから。少女というのは一般的には流動的で確かさのない小さな存在として位置づけされるけれど、自己を堰き止める価値規範の壁を越えて自己の姿を得ることを歌う曲で、その世界の謂わば登場人物として虚構に囚われていた彼らが自分達でこの曲を再構築するのはマジな革命だった。彼らの置かれていた搾取的な労働環境を鑑みても。他者から決定されたことだとしても表現や言葉を伝えたいという強く真摯な気持ちや姿勢があれば、その、人としての態度は信念となり得る。そしてエンパワメントされる存在がいる。人は自由である、選び取ることができる、非武装の市民を圧倒的な軍事力で虐殺することはあってはならない、差別をするな、人を踏みつけたのならその足をどけるなんてほんと誰が何度だって言うべきことだよ。人の精神と身体は自由であるし、そのことと選択可能性は結びついてる。

 

結構ずっと "앙칼진hot fever to save you" について考えている。執拗で度が過ぎた気持ち。釈義しようと適切ではない感情たち。でも手立てがない中で、自分では対処できない問題を抱えている時に望ましさは私を救い得ない。のぼせてて、訳がわからなくて、いっときのことで、我を忘れているのだとしても、途方のなさから抜け出す道を否定できないと思うんだよね。否定できないというか切り捨てたら、それもやはり人間性の否定になるだろうから。何かに対する有効な方法になり得るもの、動機づけされるもの、ある価値を付与するもの。だからといって不健全で不道徳であることを肯定もできないけれども。

当たり前に自分のことしかわからないけれど、それでも存外に人は人を眼差すことの暴力性や両価性と正対しまたはどう向き合うべきか悩んでるよ。ongoing struggleなんすわ。そのそもパプキさんを見てること自体がダブルスタンダードだし。あまりに年少の人や未成年のいるグループは聴かない・見ないことにしていて出来る限り遮断している。どんなに素敵でもどんなに輝きを放とうとどんなに聡明であっても、あまりに年少である人を当人の魅力のために眼差すというのは成人として一線を越しているという念がある。他者への批判ではなく私個人が人を見つめる中での、という点で。6つ離れてたら厳しいかも。パプキさんならスアンちゃんが該当する。知ればきっと自分は好きだろうなと思えど避け続けている群があり。そう決めているのに課したことを守ることもできず、自分と同い年の人がいるグループならOK(同い年の人が親密な年少者にどのような態度と姿勢で接しているかわかるし距離を取って見れるかもしれないという見苦しい言い訳を添えて)という謎ルールを設けて見たりもして。これはパプキさんでいうならジウンさんにあたる。でも私が曲だけじゃなくてグループや個々人のことを知り始めた時には既に脱退という形だったので何にせよザルの目を通した欲に他ならない。ヨンパシ聴いちゃってる時点で反してるし。Kぽ市場の非尊厳性を指摘しながら、道徳観に背くことを自分の都合で捻じ曲げて欲に従う私がいる。ここら辺は自分でもほんとどうすんのよという感じ。でも今앙칼진 hot fever to save me isパプキさんなんだよなっていう。

 

パプキさんの曲いつもクィアネスの文脈だよね?と思う部分がある。10代の頃まで自分がgayだとは口にしないどころか文字にもできなかった。それは口にもできず隠すべきことだと思っていたから。でもDykeっぽさは漏れ出してるらしく尋ねられることは幾度とあり、その度にそうかもしれないしそうじゃないかもしれないと言っていた。今だってSNSに書いているだけで、家族や友人に言葉にして話している訳ではない。でも許されないみたいな思いはなくなったな。高3の頃だったか生きているのかもわからない血みどろの倒れた体をだらんと持ち上げられる映像を見てこんなにも憎悪を向けられる存在なんだと怖かったし、Same Loveを聴きながらNo freedom till We’re equal全ての人が平等でなければ自由はないの詩に力づけられたり、でも色んな人の色んな言葉に沈むことの方が多かった。頓珍漢で低俗で差別的な言動をもろに受け止めていた。今でも徒労を感じたりショックで固まることはあるけれど、誤謬だとわかるから大抵のことは受け流せるようになった。PRIDE MONTHにはDEMONが隠れていると大マジで騒ぎ立てていたけれど、逆にクィアが気に入っちゃってプライドマンスのDEMON部分だけが虹色のグッズとかいっぱい出てた流れ大好きすぎる。私もRina SawayamaThis hellを聴きながらはいはいDEMONが通りますよ〜って感じで清々しく去年の6月を迎えてた。地獄に落ちると言われても地獄で楽しくやりますよだし、やってみたい地獄の落ち方あるんだよねNasMONTEROみたいにポールに掴まって回りながら行きたいな〜って感じです。メンタルヘルス調査でも結果が出ているけれどクィアは強い抑うつや不安を抱えており、トランスジェンダーはその中でも群を抜くのだけれど、社会的に否定されて異常だと烙印を押されたりジョークとして扱われたり、それが日常である中で健やかに生きていくのってまず無理だよ。私gay gay言っているけれど女のひとと付き合ったことない。小さい頃から女が好きな女(自己認識はデミウーマンだけど)だと思って生きてきたのに好きなメンズがいて。彼と初めて会ったのは7年前だけれどその瞬間のことを今も覚えている。ノーティカの信号色のジャケット着ててああかっこいい人が近づいてくるとスローモーションに見えて、こんな人と付き合えたならとすら思った。そもそも自分にとって恋愛感情自体が意味不明な概念で、それがクワロマなのか何かもわからないし、わかったとしても相手は女のひとかなと思ってた。だから彼のことが好きで恋しく思うのに、この気持ちは逃げて開けた扉の先にいた優しい人に甘えているだけじゃないのかとか、社会から認められる形で幸せになりたいとかそんなことに起因していたらどうしようと不安で。それを明らかにするまで気持ちは伝えられないなと思っていたけれど、何年考えてもわからなかった。彼は自分が食べたくて頼んだのに三等分してあるピザトーストの真ん中を一番美味しいからとくれるような人で、陰気な私が恥ずかしがったり面倒くさがること一緒にしてくれる。都美術館に行った帰りに私が科学博物館のミュージアムショップで恐竜のぬいぐるみを見たいと言って向かったら入り口に事前予約がないと入場できませんと張り紙がしてあった。それを見てすぐ帰ろうとしたら聞いたら入れるかもしれませんよという彼の言葉にいやいいです(私の口癖 人に質問ができないしすぐ諦める)と言ったら、私が聞いてみますと彼が守衛さんに訊いてミュージアムショップ限定の入場券を発行してもらった。無事かわいい恐竜キーホルダーを買えた。いつでも何でも私より熱心に聞いてくれる。彼といると人生にはこんなにも美しい瞬間があるのかと静かに感動することが何度もあった。彼に向かう気持ちがなんであろうとそれに飛び込んでみようと交際関係になり、結果的に期間は1年くらいだった。別の人が別の人について言うのを聞いて腑に落ちたのだけれど、ああ私って彼になりたかったんだと気づけた。スキンフェードの綺麗なグラデーションに綺麗に生やしたお髭、洒落た眼鏡をかけて大柄な体が何を着ても似合ってかっこよくて可愛いくて熊さんみたいで、親切で賢い人。でも私はそうなれない。デミウーマンと前述したけれど、男自認ではないけど男になりたいとも思ってて、そして自分のこと完全に女だとも思えなくて、だけど女として扱われるし、とか考えてもわからないことをずっと考えていると自分という存在が揺れて精神状態も不安定になって沈んでいくから、まず生存するという点からとりあえず女だということで社会生活を送ろうと、今は考えるのをやめている状態であって。で交際関係を解消したのが22年末で時期を同じくしてdepressionの波と重なったから、そこに因果関係があるかは不明だけれど関係あるかもなと少し思ったりして。恋愛規範かつ異性愛規範が根強い世でそれに添えていること、そうであらない時の批判や詮索を受けないことは確かに精神の安定に繋がるみたいだと。私だって知らなかった、それにNOと言いたい人間だから。何が言いたいかというと、社会的受容の有無は個人の精神に多大な影響を与え得る。どんなに個人が努力や時間の経過によって自己受容できるようになっても、それでも変わるべきは社会である。社会から存在を否定されるなら暴力を受けるならいっそ死にたいと願う子どもや人がいないようにしたいよ。というのをゴウンさんのDon’t be alone 착하게 받아 주지 말고に思った。規範や他者の価値判断をそのまま受け入れなくていい。

 

Say what you wantと歌うのがいつでも対話によって他者を理解しようとし、自分の気持ちをきちんと言葉で伝えていくウンソンさんというのがもう嬉しくてたまらないしありがたい。抑うつ傾向は昔からあったけれど新卒入社一年目の冬に精神の限界が来て、あの時の感覚を説明するなら体が疲れたら知らぬうちに眠りにつくように、あまりに精神がぼろぼろで虚ろで気を抜いたら自分が自分の意思とは関係のないところで自死しそうで怖かったし全てに混乱してた。最悪を脱して寛解状態が続いた頃から何で私が殺されなきゃいけないんだろう、死ぬくらいなら好きなことに金を散らしてやると開きなおりというか、生きていく上での居直りが少しずつできるようになった。나쁜 상처보단 もその通りでございます。傷つくよりはいい。死ぬよりはいい。

 

Like a villainのフレーズはああ若いなと温かい目になっちゃう。この部分はスアンちゃんが書いたんだろうか?villainでないと好き勝手できないから。したいようにするのはvillainという考え方自体が幼さを残しているというか。でもその認識って規範の強さから来ている。したいことをするのをBad behaviorと言うのも。だってBadじゃないし。実際曲中では意味の逆転が起きていてBadは推奨される行為であり、規範によって抑圧されていた存在が自己の輪郭を得ていく過程であることの強調になっている。規範やオーソドキシーは強固であるけれども権力の作用後にそれに抗うことが自由であるしBad behaviorっすわ。

 

(下記は昔ブックマークしていた記事の文章なのだけれど削除されたようで控えていたURLは無効になっていた)

批判が目指すのは、暴力革命でもなければ、統治なき世界でもない。「どうすれば現在のような仕方で統治されないか」と問い続ける姿勢である。無血革命はそこからしか成就しえない。

権力は不可避である。それゆえ、戦いの拠点は身体の外部(権力を回避すること)ではなく、内部(権力の作用後)にある。権力とは突きつめれば「行為させること」である。であれば、権力を行使されたうえで、なおも、その権力に抵抗することが可能である。

 

 

スアンちゃんのThe truth is you are born this way can’t change itに泣かないクィアはいるでしょうか。私本当にMary LambertShe Keeps Me Warmが好きで「I can’t change, even if I tried. Even if I wanted to. どれだけ努力してたとえ変わりたいと願っても私が私であることは変えることはできない。」の歌詞は有名だけれど曲全体があまりにsafe spaceで揺りかごみたいで、それを聴いている時と同じような心地になった。ほんとプリコーラスのDon’t be aloneゴウンさんからSay what you wantウンソンさん、Can’t change itスアンちゃんへelevateしていく感じがもうふわふわな雲がいっぱいある空を一歩ずつ駆け上がる心地でもうsent to heaven

 

2番の歌詞が知識不足のせいでいまいちピンと来ていないから勢いで見ていくけれど、半ば底の抜けた社会だとしても美しいものを見出せないなんて(正気のままでいるなんて)、熱中してこそ我を忘れてこそ望むものに手が届くって感じですか?以前私も全然使っていたから何とも言えないのだけれど、程度が普通ではないことを表す時に狂ったという語を使用するのそうかと思う。韓国語だと結構多いけれど。だけどミシェルオバマも言っております「When they go low, we go high.」って。相手が尊厳を欠き低俗であっても、私達は気高くすべきことをする。これも26年かかってようやく気づけたことだけど、人生って一生懸命やるしかない。ほんとそれ。

 

未来に思いを馳せながら

夢の中の小さな羽ばたきは

世界を変え

次第に現実を塗り替えていく

あなたがそばにいてくれたなら自由に飛び続けられる

いつまでも幸せに過ごす私達

 

詩としてもめちゃくちゃ美しいし、今アルバムは彼らの固い情緒的絆について描いていると公式に明言される中でこの言葉はあまりに多くの意味を内包しすぎてなんか泣いちゃう。1theKキャンプファイヤーPURPLEKISSの歩みたい道は?という質問にチェインさんが誰も失わなければいい離ればなれにならなければいいと答えていたことを思い出す。それが一番に願いとして出てくる人達が歌う言葉だと思うと。USツアーも大きな目標は「抜けないようにしよう」だったという。できる限りそうはなりたくないけれど1ヶ月のスケジュールの中で体調が悪くて途中で抜けるメンバーがいるかもしれず、その空白を埋めなければいけないことがあるかもしれないと覚悟していたと。その話の時にスアンちゃんがみんな責任感のある性格だからと話していて大きく頷いちゃった。スアンちゃんもきちんと言葉にしていく人で、不当なことや誹謗中傷には毅然とした態度を取るし、優しいし可愛いし真実を話すけれど甘言はあまり言わず内と外がはっきりしていそうで、イメージとしてはCOSA"おれはLike Sinatra しかしフランクではない 仲間以外に回す愛は持ち合わせない"ラインの感じ。だからスアンちゃんのメンバーについて話す言葉を聞くたびににこにこしちゃう。パプキさんは勤勉で誠実で愛情深くエネルギッシュで責任感があり自由であろうとする人達だけれど、どこか悲しいところもあって。それが何に由来するかは推測でしかなく、誰かを失うかもしれないという恐れやもう失うまいという傷ついた心かもしれないし、でもいつでも近くにいようと彼らは言うんだよね。我々は異なる存在で意見の相違があるかもしれないけれど一緒にいようって。agitの感傷にもそれが表れ出ているような。今回だって皆がいれば自由でいられる末永くこのままでという願いが、美しく微笑ましいけれど少し悲しくて。誰かといることを諦めないって大変だし努力が必要なことだよ。普段から話し合っているんだろうなって感じるし互いに互いを仕事人として尊敬し信頼し合っている姿が素晴らしい。Feel in my dreamからの詩もクィアネスや社会運動に当てはまる内容で素晴らしいです。初手のプロモーションは外向きだったけれど、曲聴いてあれ?なんかめっちゃ内向きじゃない?と思った。Intro:CrushBBBも歌詞だけみれば人が情熱を抱く対象の側からの肯定と奨励で、プロリからしたらパプキさんからおれらのこと好きでいていいよと言われているようなものだしね。対象は必ずしも言語表現ができるとは限らないから代弁される。BBB自体は自己受容の曲だけどこの曲での話者は聴く人間が好きに反映できるようになっていて、それでも彼らとしてはこれは私達の、友人に対する、近しく尊敬できて愛する人に向けた言葉なんだというのがマジに好きすぎるし、でかすぎるLOVEhappily ever afterっておとぎ話や婚姻の際に用いられる語だけれど、物語の終わりというのはロマンティクラブイデオロギーに収束されることが多く、友愛というものは唯一絶対の愛の形である婚姻に次ぎ、それ以上人生に立ち入れないみたいな通念ある。でも何より一番に友だちのことが大事で愛している人間だっているよ。扶け合い、このパンデモニウムような世で共に生き抜く。親密な両者の関係は恋人に帰結せず、だからといって恋人になれない訳ではなく、あなたにしか感じ得ない感情があり、時にときめき、時に相容れず、あなたが人生で多くを選び取れることを願う。そうものじゃん。ほんとのほんとにパプキさんが男女間の不均衡があるこの世でBXXBest Friends Foreverとして(XXは女性染色体を表す)、私とあなたの選択が奪われないように、ある価値規範の中で蔑ろにされてもあなたの本質を奪えはしないしその外に抜け出せる、望むことは口に出すべき、と一つずつ一つずつゆっくり構造や規範によって閉じられた身体と精神をときほどいくこの過程に称賛を送りたいです。

 



これだけは記しておきたい。MVで彼らが銃を持つ必要はあったのだろうか。どうしてもBBBで行っていることとこの光景が重ならなくて。あまつさえお互いに銃口を向けて床に倒れて。床を舐めるように低い画角に倒れたウンソンさんの半身が映る。それがとても苦しく、醜悪にさえ思えて目を閉じた。どうして好きな人達のこんな姿を見なきゃいけないんだろう。現在進行形で虐殺・民族浄化が実行され多くの人の知る所である今日に企業が若者に兵器である銃を手に取らせ且つ互いに撃つということを公式に行ったことがショックで。ファンシーな色の銃にはグリッターがまぶされ発射されるのは紫の煙幕であり、世界を彼らの色で塗り替えていくという意図や暴力に対する克服が含まれているであろうこともわかる。わからないけどわかる。でもそれなら誰が見てもわかる形で、明確で確固とした形で示すべきだし、銃火器ではない装置を用いるべきだとも思う。もしどうしても用いるならこの兵器の殺傷力で何を破壊し得るのか、家父長制をぶっ潰すsmash the patriarchyとか間違えようのない形で示してくれたらと思うけれど、恐らく配慮や懸念が全くない訳でもないのに掛け合わせの中で結果的に全部がぼやけてて、何で?って思ってしまうんだよね。暴力革命ではなく人が自らの精神の自由さのために尊厳や生きていく力を得ていく過程を踏んでいるのになぜ銃?って。安易であるという念の方が勝る。そもそも私が銃火器を嫌悪しているからというのは十分にある。でもこの件に関しての一番の点は、彼らがそれを楽しそうに無邪気に行うことに何と思えばいいのか、何と声を掛ければいいのかまるでわからない。わからないなということ。終わり。

 

BXX前まではそれぞれをそれぞれに好きだけれどその上で好き人が頭ひとつ飛び抜けている感じだったのが、今は均ってきていてこれが俗に言うところのオルペンの感覚なのかってなってる。BXXスタイリング全員とんでもなく似合ってるけれどその上でイレさんが毎回最高を叩き出してた。むきゅむきゅしてて可愛いエナジャイザーリスちゃんなのに、踊る時の目の流し方とか軌道とかオーラがセクシーでマスキュリンなの本当にかっこいい。マスキュリンといえばLove is deadビハインドでイレちゃんがtechに似合う曲ないかなとウンソンさんに聞きshoot outと返ってきて楽しそうに体を動かした後、ガールズグループではないかな?と口にしてた。techwearや係る表出、つまるところのかっこいいものはメンズだけのものじゃないという念がこの一言の内に滲んでて私イレちゃんのそういうところがめちゃめちゃ好き。そういう点でもBXXがよく似合う人だと思う。ほんとみんな望む形で望むように幸せになろうね。

 

 

低血糖2度ほど失神したことがあると友人に話したらラムネいいらしいよブドウ糖入ってるからと教えてもらい通勤鞄に常備している。ここ何ヶ月はちゃんと食事摂ってるからやばいと思う瞬間ないけれどお守り代わりに。Intro:Crushを喩えるならそのラムネ。


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Nxde

Nxdeは奪われてきた女たちへのトリビュートだ。尊厳や機会を奪われてきた女性への。生活史が記されることのない数多の人々、そして大衆に晒され当然のように消費されてきた著名人への。固有名詞を出せばそれはマリリンモンローへの、スジンへの、CLCへの、そしてアイドゥル自身への。

 

 

リリース前夜

公式からインタビュー動画が出た。緊張の高まりと研ぎ澄まされた意識に、私も期待と不安を感じていた。彼らなら本当にしかねないと、絶対にしないとは言い切れないと思っていたから。したくないならしないだろうけど、しようと決めて同意したのなら実行すると思っていたから。どう感じるのかも、好き嫌いで判断するのかもわからないけれどそれが彼らの示したいものであるのなら、ただそれをそうとだけ捉えたいと公開を待っていた。I loveインタビューで語られた言葉はどれも多くの考えを与えたけれど、シュファの言に涙が流れた。私は誰をあてにするでもなく崇拝するでもなく、自分の中に支柱を持ち自分の中に生きる術を見つけたかったから。眼差していてそう思えた彼らが、人は独立した存在で、何であれ自身に対する決定の判断を他者に委ね放棄することを望まないと明言したから。


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アイドゥルのアルバムIシリーズ(I am, I made, I trust, I burn, I never die, I love)は彼ら自身について述されたものであるから常に主語のIが付く、という公式スペースで話されたことに考えたことがある。アイドゥルが他のKぽグループと異なる点は色々あるけれど、突き詰めればこれなんじゃないかと思う。常に主体が私である、主語が私であるということ。他者に作用させられた結果としての表装、K-POPでは不可避な筈だったこと。コンセプトという語によって擦られ続けてきた。だからこそ人はステージでの表出だけではなく、どう考えどう語りどう行動するのか内部(個人の道徳性)に目を向けようとした。

以前ヘイターがソヨンの英語表記や発音がおかしいという方法でTOMBOYを非難していると知りげんなりした。立て看板の字が汚いと主張することと似たような、すり替えの上で人を貶める方法だよ(トーンポリシング)。彼らの主張の本質と異なる部分で全てを非難しそれには意味がない又は十分な内容ではないと結論づける。人が変えることのできない属性によって他者から行動規範を固定化され不利益を被ることに、批判とエンパワメントを試みる曲を、表記も発音もおかしいからこんなのは価値がない偽物と言うのは文脈錯誤クレームだと一目瞭然だ。それこそwhat’s the loss to me yaだし、何を踏み躙り得るか想像し留まるだけの思慮もなくいたずらに言葉を放ち対話する気もないのなら、その悪意に止まることはないから際限なく貶めてみれば?ともなるよ。正当性の主張ですらなくただの難癖と人格否定だから。私はもう傷つかない。損なわれるものはない。けれどこう至るまでは傷つき続けてきた筈なんだよね。人を怯ませ罵りそれで黙らせてきた人間の前で。でもそれは私に値しない苦痛であると言えるようになった。私は私の姿が好きだから、踏み躙られても尊厳は傷つかない。生きていく中で奪われたくない。それは確かにI never dieからI loveへと続くテーマ。

 

Nxdeのスペクタル

ソヨンがNxdeで試みたことはあまりにも鮮やかで痛快で天晴れだった。最も知られる例として検索欄の保護がある。韓国語で女・子どもたちという意味のグループ名である彼らが、ヌードというタイトルで曲を出す。女(女児) ヌードで検索して出るのは裸体や盗撮ではなく、アイドゥルの活動画像と「変態はお前だ(卑しいのお前だ)」という歌詞の表示である。それが前アルバムにおいて女性性の客体化へのNOを提示し外した(G)を戻した理由だった。餌をばら撒きわざと欲望を煽りひろく人を引き寄せた上で「それは手に入らない」と突きつける。自分が誠実に主張するだけでは届かない批判の対象をむこうから自分に向かわせ、そして打撃を与える。ソヨンは彼らがしてきた同様に奪うのではなく手に入れられないようにした。手に入れられなくなってようやく思い知る。それはあなたのものではないし、所有し得ないということを。人の身体と精神、そしてその表出は当人のものでしかありえず、敬意を払うべきだと。私が私として生き獲得してきたものであり、私でなければ手に入れられないものであると。これは検索欄の効用に見られる性的消費抑止だけでなく、原則が消費行動の促進であるK-POP市場の持ち得る非尊厳性への批判と、適応への抵抗でもある。

その念を強く感じたのがレコーディングビハインドだった。アイドゥルは各人の特徴を活かし伸ばすためにソヨンがそれぞれ別の先生をあてがっている。会社が用意したというか、この産業の中での大きく安定した通る声を出す一定のノウハウは適用できる範囲が広い反面、その人自身の声の特性を削ぐ部分も多い。ソヨちはこんなにも豊かな特徴を持つメンバーの歌声が一時期皆似通い同じようになってしまったと話していた。だから早い段階で一律のボイトレを廃止した。録音は基本的にソヨンがディレクションする。彼が宝石と称する個々人の歌声ではあるのだけれど、ソヨンでないと引き出せない音色。それはアイドゥルの優越性でもある。他の人間はアクセスできない。

 

2022年のシンドロームことアイドゥルのベストステージを訊かれたら迷いなくMMAと答える。草の葉の一節「わたしは受容された勝者のためにだけ行進曲を奏しはしない、わたしは征服され、殺害された人々のために行進曲を奏する」そのものだったから。22年に彼らが行ってきたこと、彼らが主張してきたこと、彼らの舞台人としての矜持、その象徴のように思われたから。MMAステージは東京交響楽団定期演奏会に行った夜に観た。クラシックというのは好きな曲目は当然あるけれど、楽団ごとにまるで異なる響きでどのように解釈されて表現されるのかそのマッチングであるし、一夜で指揮者のジョナサンノット監督の表現ファンになってしまった。監督は記者会見で「真の音楽作りは即興性なくして成り立たない。リハーサルではどのように音楽を作るか方向性を決め、コンサートではただ演奏に没頭する。謂わばリスクを取るということ」と話していた。この言葉に真っ先に浮かんだのはアイドゥルだった。

 


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NxdeMVを初めて観た時具合が悪くなった。金を払いガラスケースを舐めるように見る人々は評価というより品定めの様相であったし、取り囲み携帯で撮影する衆は皆対象ではなくその液晶画面しか見ていなかった。ライブチャットに並ぶ悪意。それらの気持ち悪さと眼差しの暴力性。特にソヨンの映る配信には侮辱と猥雑な言葉しかなかった。これらの再現性は彼らにとって日常的に受ける行為であること、理性的な対話によって解決できる問題ではないことを示していた。では仕方のないこととして耐えるしかないのか。否。といえども対話可能性は低い、だからソヨンはNUDEでおびき寄せた。『Motherland:Fort Salem』というウィッチと呼ばれる能力を擁する女性による軍を主体とした家母長制がベースにあるドラマがある(マジで観てほしいディズニー+で観れます)(2023年追記 ディズニーはイスラエル支援を行っているため新規加入は勧めません)。軍の基盤となった100年以上生きる将軍がその特異な能力から生まれた地を離れても国境を越えても追われ迫害され続け家族も友人も殺されていくそれは私が戦うと決意するまで続いたと話す。でもそうなんだよね。傷つけられるなら辛いなら逃げればいい無視すればいい争う必要はない、そう思うよ。短期的には。そもそも何か特異な点があったとしても人が人とが、ましては自分を毀損しようとする存在と対峙するのはこわいよ。でも不毛な戦いを回避しても、相手は奪い続けるだけで、私は死ぬしかない。どうしたら奪われないのか、いかに権力に統治されないか。その答えを出し、エンパワメントと批判、報復を全てやってのけたNxdeのスペクタルは語りきれない。

変態はお前だ

忘れられないドラマのシーンがある。キューバ移民家族のシットコムOne Day at a Time』。不安障害やアルコール依存、人生における伴侶の存在や移民として生きること、セクシャルアイデンティティ、アタッチメント、差別について様々な悩みやプレッシャーにさらされながら人が生き、それから逃げ出したくなったり恥たりすることに真摯に向き合った最高なドラマなんだけど。「男よレイプするなは?」という言葉が出てくる。被害対象に気をつけるよう喚起する。それは確かに重要なことだよ。でも加害者、加害行為に対してそれをしないようにとは呼びかけない。被害者が気をつけていなかった、そんな格好をしているのが悪い、そんな道を歩いているのが悪い。でも被害者の過失じゃない。私達はきっと"気をつけるように"じゃなくて(加害する)「お前が悪い」って言ってほしかった。もし性被害に遭ってもあなたのせいじゃないって。学生の時も、そして大人になってからも。アイドゥルがNxrdでそれを行った幸甚は計り知れないよ。正直女として生きていて、性加害の脅威に直面しないでいられる人はひとりもいない。皆話さないだけで何らかの被害を受けている。日本では性犯罪の裁判の傍聴席は壮年男性によって埋まるという最悪な事実もある。


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(このエレナの後の母ペネロピの話まで含めてどうしても観てもらいたいので後日どうにかします。NetflixでOne Day at a Timeシーズン3 2話になるのでよかったら日本語訳付きで見てください。)

 

《注意》以下私の経験なのでフラッシュバックの恐れがある人や読みたくない人は飛ばしてください。未遂であり服を脱がされたり体を触られたりしなかったと付記しておきます。

高校生の時家の裏の暗い坂を歩いてたら後ろから走ってくる足音が聞こえてきた。姉かなと思って立ち止まって顔だけ振り返ったら知らない男がいた。ごめん、と一言だけいわれ何?と思ったら押し倒されて瞬時にまずい状況だとわかった。とにかくめちゃくちゃに身体を動かして抵抗した。上になったり下になったり視界が転げ落ちるようにぐるぐる回転して、声が全然出なくてでも叫ぼうとして、出てきたのは家そこなんだよ!だった。でも家のすぐ近くでこんな状況に巻き込まれて本当に家に帰りたいだけだった。どれくらい繰り返したかもう無理だと判断したらしく逃げられた。この揉み合いの中で膝を怪我して流血した。私は帰宅即ジャージに着替えて、トイレに入って膝の怪我を写真に撮った。この最悪な出来事を最悪な感情は目に見える形で残すべきだと思ったから。でも家族には言えなかった。きっと話すべきだったけれど。なぜ話さなかったのか今も説明できない。恥ずかしかったからとも、怖かったからとも、忘れたかったともわからない。でも隠したかった。このブログを知人が読んで家族に伝える可能性はなきにしもあらずだし、伝えてほしくはないけれど、Nxdeについて記事を書くなら誰にも言えずどこにも書けなかったことを書いてみようと思った。当時人は一人でも生きていける、反対に一人では生きていけないような状況に追い込んでおきながら、ほら一人では生きていけないだろうと誇る社会に呆れる、と豪語していたような生意気で世間知らずで浅はかな高校生だった。可愛らしくもなければフェミニンでもない。普段の性格特性を知れば、魅力的な女として認識されないし声をかけられることなんてない。でも黒髪ロング制服女子高生という記号だけで見られた。それでこんな目に遭ってる。私の自己認識はデミガールなんだけどそういうものを完全無視でただ「女」としてだけ強制的に認識されることがどれだけ乱暴で苦痛をもたらすことか。しかも逃れられない。アイドゥルはそういう苦痛を引き裂く人達なの。

 

制約と主体性

舞台装置としてのNxde内で幕・覆いは頻出する。緞帳は言わずもがな、ガラスケースに掛けられ彫像から引き抜かれる白い布。開示/非開示は当事者ではなく覆いを手にする他者の采配でしかあれないのか。その直後、彫像の真ん中に立つシュファが現れる。あまりに象徴的な緑のドレスの画。展示されるだけのオブジェクトじゃない。他者から望まれた姿で停止する彫像じゃない。私は私の輪郭を持ち、私は私を定義できる。アニメーション部分ではキャラクターによってブラインドが下される。非開示の選択。例の配信部分でソヨンは自ら服を脱ぐ。開示の選択。当たり前のことだけど見せることも見せないこともその人が決めることなの。配信で物理的に服を脱ぎ去ろうとするソヨンを見た時、だよね脱ぎたいよねと思った。メンズが上裸になってもまあそういう人もそういう時もあるよねで終わる。ステージ上であればボルテージがあがるしセクシーだともかっこいいとも言われる。興奮したり盛り上がって上裸になれるの能天気なマスキュリン仕草だねと皮肉を込めてあえて言いたい。

-男がそうするのがずるいというなら女も同じように脱げば

-いやずるいって誤りな上に矮小化して形容しないでくれる同じようにしたらsexualizeされるでしょ

-男が上裸になってもそうだよね性的に眼差される

-尊厳を傷つけられたり淫らとか不適切な扱いをされたり笑いを浮かべて拡散される?安全について本当に同じラインだと思う?

という仮想問答を一人でしてしまった。安全について気にせずにいられる強者であれるかどうかが性別によって大きく左右される事実。それらも踏まえて身体と精神の開示範囲や度合いは個々人の選択であるというのが示されていたように受け取れる。けれどアイドゥルもK-POP市場に身を置き会社に所属する労働契約を結んだ人の集まりであり、そこには確かな制限がある。書いた歌詞を突き返されたり、題の変更を求められたり、不適切な言動というものが定められている。アイドルコンテンツにゲームはつきもので、ゲームにはルールがあるけれど彼らは必ずと言っていいほど則らない。チーティングするし、ルールの改編を求めるし、怒る。私はそこが好きなの。一方的に指定された枠組みをそのままに受け止めないところが。力関係に対して対等であることを求めるところが。自分の声を発せないとは思わないところが。NHKねほりんぱほりんで、韓国芸能事務所社長の意見として欲しい人材は言うことをよく聞く人、会社の方針に従う人、自分を捨てられる人とつまるところ従順な労奴がほしいと臆面もなく話されていた。実際Adapted Childのように見受けられるKぽアイドルは多い。わかっていたことでも改めて聞くと怒りが沸いてくる。従順な労奴であることを要求する市場に対する反説というのもアイドゥル結成当初からソヨンが示してきていることだ。プデュで出会った友人は皆個性豊かであったのにデビューした先で100%発揮できていないようであり、私達は個性を中心としたチームをつくろうとしたと語っている。プデュ・アンプリティ・クインダムに参加し放課後のときめきではメンターを務めたソヨンはサバイバルモンスターと呼ばれている。マジで何じゃそりゃなワードだ。説明する際にサバ番出せばわかりやすいし、ソヨン自身もこれまでについて番組名を出すことあるけど、New visionでの「I know, I know art is not a competition(芸術は競争ではない)」という市場原理主義への反説が彼の本意であると思うから。その後に「idle is my masterpiece 」の詩が続くの、あまりに大きすぎる愛と確固な信念で聴く度にくらってしまう。今はなきユニバスのラジオコンテンツどぅるちなさい最終回で、シュファがメンバーと一緒にいると私は自由になれますと話していた言葉がずっと残っている。制約とその中での主体性が強く感じられるからアイドゥルのことが大好きです。

Now I draw a luxury nude」のソヨンパートがあるけどね、私は私の輪郭を描くそれを勝手に判断するな、姿を露わにしたいとか、その姿を他者が暴こうとするのはただの暴力、というのをすごく思うんだ。ソヨンが試みたことについて餌を撒き欲望を煽り広く引き寄せたと言ったけれど、ただこの人を知りたいという気持ちも暴力になり得るということを認識しなきゃいけない。アイドルを好きでいること、誰かを好きで応援する気持ち、好意は無条件にポジディブであり得ない。大切な人であっても、どうして消費していないと言えるだろうか、どうして暴力的な眼差しでないと言えるだろうか。ソヨンがNxdeで批判しているのは「尊厳ある一個人としてではなく目的における手段や物として人を扱うこと。それに無自覚又は疑問を呈さないこと、責任を問われないこと」であると思うから。

 

チョン・ソヨン

尊厳や機会を奪う構造・環境に対してindividualityは報復で有り得る。1曲の中でこれだけ多くの意味と価値を生み出すことができるものなのか。言葉によってそれを成し遂げている。ソヨンは言葉の有効性を信じている。言葉が変革をもたらすことを信じている。偉大なラッパーだよ。前にエンペラーに代わる言葉でソヨンを表したいと言ったけれど、Nxdeを聴いてからはこれしかない。偉大な詩人。

 

アルテジミア・ジェンティレスキ 『ホロフェルネスの首を斬るユディット』

I loveの歌詞カードは切手を貼る部分がある。切手シールも入ってる。メンバー1人ずつが写ってる5枚の切手に、66箇所のカード。私はこの空白を愛するよ。

TOMBOY

公開された日から毎日狂ったように聴き、届くのを今か今かと待ち続けたI NEVER DIEが届いた(3月の終わり)。TOMBOYにこんなにも熱狂しているのは家父長制への抗議、解体の意が明確に示されているから。これはコンセプトではないと私は言いたいよ。彼らが示すようにこれは彼らの態度であるから。今日多用されるコンセプトという語は単に商業的戦略の様相としての虚飾のような、ある種の寒々しさがある。そしてそれは資本家である会社と雇用契約を結び表現の方向を定められた姿が、搾取される立場の弱い労働者に感じ得るからなんだけど。そこに熱量や技術があったとしても歌手を名乗る人が、自分の考えや主張を曲に反映することが容易ではないとはどういう状況なんだろうか。だからこそ流行に左右されず夢幻的で情熱的な自分達の音楽をやり続けてきたアイドゥルが好きなんだけど。メンバーがプロデューサーとして作詞作曲振付衣装撮影指導MV内容に対する裁量があるからといって、それをそのまま讃えられない。曲作れるからすごい〜って話じゃないんだよ。そこに人としての生活の態度がなければ。アイドゥルにはそれがあるからこんなにも好きだし尊敬している。

ソヨンがデビュー前に作曲を勉強した時、女性アイドルが作曲を習うことが珍しいとされ、作曲とプロデュースがしたいのだと言えば不思議がられ理由を聞かれた。たかだか数年前の話。アイドルでプロデューサーであるGDやZICOについて話せばあの人たちは男じゃないかと言われる。そう言われるたびにそれがこのことと一体何の関係があるのだろうとわからなかったとインタビューで話していてああ…と思ったし、腕にある心電図のタトゥーについて話した時もそう。彼女は人生の出来事や考えを曲にしているけれど、タトゥーは主張というより特別な出来事を記録しているものだと話し始め。私が生まれて人のためにできることはいくつあるのだろう、一生で何人の人のためになれるだろうか、他者のために何ができるか、私が何か一つでもして死ねるだろうか。そんなことを日頃思っていたからとても考えて臓器提供の申請をした。それが自分にとって大きな出来事だった。なぜそうしたのかと言われれば私はただ善き人でありたいと話していた。ソヨンはすごい人だけれど、この社会の中で女として生きていれば否応なしに被る経験の共通項であったり、人として願うことの類似であったり、それを感じられるところがまた。

ソヨちが自立し考えを言動で示せる立派な人だとは百も承知だけれど、本当にとても可愛い人で私より年少なので彼がどうか傷ついたり悲しむことがなければいいのにと思う。こんな人が自分は破滅を願われるvillainであると気づいたと話すのは悲しすぎるから。VILLAIN DIESソヨンのラップパートに「You put me down and want me dead」あなたは私を貶め私に死んでほしいと思う、とある。ここに置かれた感情の悲痛さにずっと沈んでいる。人は誰かにとってはヴィランであり、誰かにとってはヒロインであるかもしれない。私をこんなにも傷つけ苦しめるあの人はヒロインだからと守られ選ばれる。けれど私の立場では私がヒロインであり自分自身を守る。ソヨンはTOMBOYの詩を韓国語で書いていたし、それで進めたかったけれど、韓国語では語の意があまりに強すぎるから英語にするより仕方なかったという話をしていた。英語箇所は検閲されてなお主張したい部分、避けられた表現であるともいえる。夢は確信に近づくと場面が変わるというのに似ているね。LIARみたいに普通に構成上の演出としてもあるだろうけれど。本人の口からこの話を聞いてから更にTOMBOYに込められた気概、VILLAIN DIESのあまりの苦しさに泣きそうになる。

 

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私の言動は女であるから男であるからではなく私という人間であるから、一人間存在として取り得るのである。けれど性別役割分業を始めとする他者からの行動規範の固定化が実際にはある。家父長制はそれを補強する社会構造なんだよね。TOMBOYの主体はつま先に元恋人のタトゥーを入れているような強烈な人なんだけど、歌詞を拾っていくと「니가 싫 다 해도 좋아 」にが しるた へど ちょあ、これは韓国語初心者の私もわかる、あなたが(私の言動)を嫌おうが別に構わないとある。そして「Why are you cranky, boy? 뭘그리 찡그려너 」どうしてそう不機嫌なの坊っちゃん?顔を顰めて、「미친년이라말해 What's the loss to me ya」 イカれた女って呼べば?私は何も失わない、に続く訳なんだけど。クソ男選手権かと思うほどクソ男の特徴が書いてあるんだよね。不機嫌さを全面に出せば周りが自分の"お気持ち"のために動いてくれるとか、相手を狂っている,狂った女だと主張し貶めることで社会的立場を守り自己保身するって何万回と見てきた光景だよ。女に侮蔑語の년を持ってくることで、この女性が悪意を前にしてもだから?って自分のしたいようにする姿勢と男の卑劣さが強調されてるのがめちゃくちゃソヨンって感じ。家父長制にとっての"善良な男性が気に入らない女性に取る言動って大体そんなものだけど『人を記号化して枠組みに押し込めるなら、あなた達が偏見を込めて呼ぶTOMBOYに、男らしい女性なんてないけれどそう呼ぶなら私は私を変えないしfucking tomboyになってやるよ』と反駁する。

TOMBOYで行われているのは最早言葉の再領有(reappropriation)なんだよね。差別的に使われてきた言葉や概念を、差別される側が肯定的に再定義し用いるといった意味変化の形式のことなんだけど。差別的また支配的な体系によって、自分自身、そして他者の見解を制限されることをよしとしない。私は私について私の言葉で語り、構築し、自らを定義できる。それをやってるのマジで信頼しかない。

「Your mom raised you as a prince. But this is queendom right?」の次に「I like dancing I love ma friends」が来るの大好きすぎておれらの歌じゃん最高〜ってなる。小学校だか中学校だか社会の授業で男女雇用機会均等法を習った時なにそれ男女が平等じゃないことあるの?何時代の話?と思ったんだけど、大学卒業してからこの社会というのは習ってきたより、保障されるべきで保障されていると信じていたものより、もっと最悪だという現実に殴られてさ。

事実として女性というのはこの社会にとってマイノリティであり、男性は男であるというそれ自体が特権の上にある。配慮されてきたことや男女のダブルスタンダードを認識しづらい。また更にこの歌詞の良さを助長しているのがMVでソヨンはグループ名のG(girlの意)だけでなくThe Queenにも線を引き消しているところなんだよね。属性による区分やそれによる評価の相違に対して、等しく人間存在としてただその点においてのみ議論できる基準まで持っていきたいし、何ならソヨンはその土俵にいる。19年LIONではI’m a queen、21年Is this bad b****** number?ではZ世代を率いるアイドルラッパーはqueenなのかkingなのか誰であるのかと詩を書いている。femaleアイドルとしてだけでなく、femaleとmaleとをそれぞれ区分するのでなく、ソヨンはK-POPというジャンルの中で頂点でありたいんだよ。また繰り返しになるけど会社と所属アーティスト,練習生の力関係はあまりに不均衡だ。会社は資本的価値を追い求め、そのために魅力的な若者を利用している。CUBEについて言えば、先輩にあたるCLCはどうでもいいヒットしているアイドゥルが最優先と予算を注ぎ込み、それをCLC当人達にも言い放ち踏み躙る行為を重ね、こんなのは不当だと抗議し脱退したエルキーに続き次々と脱退していき残ったのは3人程で事実上解体だった。ユジンさんもだからガラプラに出ていたし。ソヨンの「あなた達が私にできる一番のプレゼントは連絡してこないこと、祝賀の食事の場も用意しなくていい」と喜びを分かち合いたくないというCUBEへの拒絶を目にし、使役や搾取される存在であった自身や友人、大切な人たちを下敷きにしてきた体制に対する不信は根強いしそれはきっと修復不可能なのだと思った。曲の出来がどうあれ作曲経験もあまりない若い女性にデビューのタイトル曲を任せるという判断をすること、それは他の会社ではできなかった偏見なく眼差してくれたと感謝の意も示していたし、会社において役職に関係なく意見を聞きたいと言っていたし険悪とも言い切れない。出社したPDソヨンの「おはよん会議しよっか」の一言で社員がぞろぞろと集まり、企画会議が始まったのマジBOSSじゃんって感じ。


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彼が音楽をする上で重要なのは信頼できるかっこいい人と愛するチームで仕事をすることじゃないかと思う。ソヨちっていつもアンコールステージやコンサートが終わる前に、一緒に仕事した人への謝辞を述べるんだよね。彼は仕事を愛しているし、それは信頼の上で成り立つ。これまで会社が下してきたある部分での決定や考えをアイドゥルは是としていないし、抵抗もしている。その中で所属会社を曲を出すための機能として位置付けているのも確かではある。機能として利用する、利用できる立場へ転変したこともすごいなと思うんだよ。だからこそソヨンが社内でも社外でも仕事をしたい人と仕事をして、チームを組んで、自分のしたい音楽を自分のしたいように作っていって、そこには制限もあるかもしれないけれど、その姿が人を搾取し続けるK-POPビジネスからの解放の糸口を含むように思える。そしてそんなソヨンの姿はemperorと呼ばれている。K-POPの皇帝。ソヨンを表す語としてemperorが自分の中でしっくり来てる訳ではないから、適当な語を見つけたいんだけどね。

そしてThe Queenを消してもthis is queendom right?って言ってたじゃんの点がある。これは領域の話だと解釈してる。人が所有し得るのはその人自身、その精神と身体である。他者の言動は支配できないし、父(母)から財産を相続できるprinceとして慮られて育てられたかもしれないけれど、人が所有し得るのは自己のみだけどその辺大丈夫そ?という批判と煽りと受け取っている。

私はTOMBOYってレズビアンの文脈の言葉という認識があるんだけど、クィアであり女であるというダブルマイノリティについて表す言葉をI NEVER DIEという名のアルバムのタイトル曲題にして打倒家父長制を歌いオールキルしてるのかっこよすぎて、人がこんなにかっこよくあれることある?って感じ。これだけは言っておきたいんだけど、この曲の意図するところは反男性ではなく女として存在を閉じ込める社会的圧力、そしてそれは男性の形を取り得るってこと。表象としての。そもそも主題はジェンダーロールだけど全ての偏見に対する彼らの見解だとちゃんと明言されているしね。この曲を書こうとしたきっかけも多く一語一句に意味を含ませた上で、感じるように感じてくれればってソヨち言ってた。まずジェンダーロールについて思ったけれど、身体の自己決定権についてかなとも感じた。他者が個々人の身体や精神に介入しようとすることへの批判にも聞こえて。ルッキズムや資本主義の中で魅力的であるとされる容姿を求められること、資本的価値を持たせようとされること。それはそのままKPOPの土壌について。規制音なしのCDverではソヨンのバースにI like to sex drinking whiskeyとある。個人的には誰であれ性的表現しないでくれないかな〜と思うのだけれど、実際に男性やメンズラッパーが性的なことを大声で話していてもそれは"普通のこと"だと捉えられることは多い。でも女性が同じことをすればそれは淫らだと批判されたり、性的消費していい対象だと認識される。自分の身体や経験について話すことを、ある属性ばかりが非難されたり規制されるのはおかしいから、ソヨンがリリックに性的交渉について記したのもマジわかる〜って感じ。

アルバム題からしてフェミサイドについて言及しているのかなとか。シュファについてどうしても書いておきたいことがある。先月中国唐山市内飲食店で女性が男に体を触られ抵抗したら集団暴行を受けた事件があった。唐山打人事件で調べると詳細が出てくる。映像があるけれどフラッシュバックが起こる可能性がある人は見ない方がいい。暴行を受けたことのない私でも過呼吸のようにうまく息ができなくなって、うずくまるしかなかった。無力感とどうしてこんなことが起こり得るのか怖くて泣いてしまったから。男が酒瓶や椅子で女性を殴打しつ続ける。店にいる男性は見ているだけで誰も介入せず、一緒にいたグループの女性だけが止めに入るけれど同じく暴行を受ける。男の仲間が複数人加わり血まみれで倒れながら外に引き摺り出され暴行は続く。12日朝Twitterで唐山打人という言葉を何度も見かけそれで調べたけれど、シュファが微博で声明を出していたからだった。「親愛なる女性へ。あなたが負った痛みや恐怖、不正から助けることができずごめんなさい。」から始まる投稿。加害者に対して「人として生まれたなら、人であらなければならない。このクズどもに言葉が通じるかはわからない。こんな奴らがいるから女性は自己防衛を取らなければいけない。」と抗議と怒り、被害者に対する深い謝罪と寄り添う気持ちを記していた。あなたは良い人だけれどアイドルだしこれを示したことでヘイトの対象になるかもしれないことが心配だという声には、「誰かにとってアイドルであれたらと望むけれど、アイドルとしての立場を守るために口を噤むのは違う。私は正直に誠実に生きたい。不当なことには声を上げたい。」と返していた。

シュファは人としての尊厳を保ち続ける。普段はどゆこと?と思う言動がなきにしもあらずだけど、彼女の人としての姿勢は一貫している。19年になぜ化粧をしないのという声に答えてたんだけどその返答もかっこよくて自分の中で価値基準がはっきりしている人だな、そしてそれを人に伝えようとする人だなと思った。

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「多くの人になぜ化粧やネイル、髪を染めることをしないのか聞かれます。あまり着飾らないけれど外出前には鏡を見て身なりを清潔に整えてますよ〜そうあることが私には快適な状態だから。人がそれぞれ美しさに対する追求や好みが異なることは知っています。皆さんが(飾った姿を)好きであることを尊重します。そして私は自然な私の姿が好きです。人から見たら足りないかもしれないけれど、私にとっては"私自身であること"が重要であり、そしてそれが私の思う美しさです。人が私をどう評価するかわからないけれど、ありのままの自分を愛し続けます。」

 

TOMBOYのMVが私にとって伝説の映画『Assassination Nation』を感じるものだったことは大きかった。真っ赤なジャケットを着て武器を手にするあのビジュアルと主題の出力の仕方にオマージュか?と思っちゃったよ。これに関しては私が人に勧めたい映画というだけだけど、20年に観た時の感想をそのまま置いておく。

不可避の暴力性に溢れた世界で苦しみを自己の有用性・正当性の主張によって軽減させる人々の中で尊厳を持って生きていくには愛のある連帯が必要だよ。人道に反する、議論の余地がない、問題を後の世代になすりつける、そういうことがクソなんだよ。それに賛同したり、服従したり、屈服したら死ぬだけ。それは間違っていると声を上げれば応じてくれる倫理観を持った人が現れるはずだから。確かにこの映画は過激で暴力的な描写があり不安で怖くなるけれどああいう最低な人間は存在する。それと闘っていかなければいけないのも事実。こわいけれど。

 

今回のアルバムには強い意志と同時に深い悲しみも感じられる。それを失ったら私は私でいられないと思う大切なものだってこの世はいとも簡単に奪い去っていくし、一人の人間が到底対処できぬことが次々と押し寄せるし、どれだけ深く傷ついても人生は続いていく。そういう無常さと押し潰された人間の姿が見える。それにI NEVER DIEは確かに誰かに宛てた、捧げられたアルバムなのだけれど、そのただ一人のひとが誰なのかわかるから殊に悲しく殊に強く琴線に触れる。

私の話をすれば今だって終わってくれるに越したことはないけれど、1年半前が最もひどかった中学生頃からずっとあった希死念慮が確かに晴れてきていて、こんな日がくるんだなとそれにいちばん驚いている。自分で死にたいとは思わなくなった。それが最近の私にとっての大きなことだったのでそれもI NEVER DIEを特別に思うひとつの理由かもしれない。

 

KPOPはあまりに不健康でそれを受け止めきれないからなるべく距離を置きたかった。何であれ基本的には人を刺激して欲を煽るものだから。 倫理・健康の問題を抱え、眼差す人間も不信やジレンマを抱えて尚膨らみ続けるKぽ市場で、賛同できないことや苦しい事実は多いから。それでもふらふら寄ってしまう意志薄弱さ。私だってKぽを楽しみたいよ!!!というそれはそれで最悪な感情を持ちながら。I NEVER DIE以後マジでアイドゥルしか見えないの。よく使われる言い回しだからこう言ってるんじゃなくてマジで。Kぽにそうであってくれたらと求めていたものに知り得る限り最も近い人たちだから。音楽スタイルや主張、人としての態度を支持できて、今彼らが私の中であまりに確固たる観念になっている。世には様々なグループがあり、素敵だなとは思うけれど惹かれなくなった。今少なからずそうなってしまっている私が言うには滑稽だけど、ある個人を好きでいることを自己の中心に置いたり、支柱にすることは不健全だし避けるべきだ。人を崇拝したり当てにするのも。人は自分の中に救いを見つけてこそだと思っているから。自分の中に支柱を得て自分の中に生きていく術を見つけなきゃいけない。I can handle itと I can’t handle itを行き来してばかりだけどそれが今の人生のテーマなんだ。カメラが回っているとき回しているとき、その時の言動がどれだけ彼らの内的世界の表出であるか実際わからない。けれど一つひとつの言動に、この人が生きてきて経験してきて思考してきて失ってきて譲れない価値規範があるのだと感じるし賛同や信頼ができる。私は自分のことクソだって思っているけれど、尊厳を持って殺されることなく生きていきたい。今の生活だとそれが少し難しい。だけどIDLEを見てると、この行き詰まっている人生にも選択の余地があると思える。私は選び取ることができると思える。とにかくアイドゥルは全部かっこいいし全部かわいいし全部セクシーなチーム。

 

私はきっとよく考えるということができなくて連想ゲームに似た思考をする。ある事柄を連想によって前後に繋げる。そのためある点では事実でもどんどんと逸れていき本質にたどり着かない。妄信の積み重ねというのが実際なのでそうなんだ〜くらいで受け止めてくれたら。無粋な注意書きだけれども。

 

ベスト字幕でお別れ。

Bye

あなたという人を信じている

 

 

『人生はつらく困難だし傷つけられることは避けられない。そのことにたじろいでも私達が彩り続ける、だからどうか崩れないで。たとえ孤独で頼る場所がなくても』

 

えりちゃんはいつも伝えようとする。今日だからじゃない。ファイナルは伝えたいことを広く多く深く人に伝えられる場としての側面もあったけれど、特別な日だから特別なことを言おうじゃないんだ。少なくとも私が知った'17年からずっと私達の生活の充実と幸福を祈ってくれて、その役目を自分が担いたいとプラメで送ってくれていた。全てが地続きでここにきてる。

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これは小田えりなさんと2021年5月23日チーム8 全国ツアーファイナル神奈川県公演についての覚書です。

 

ソロステージで歌っていた『暗闇』だけれど昔「やりたいこと やりたくないこと やらされながら」という歌詞を見た瞬間曲を聴くことをやめたと言っていた。自分のような職業で立場の人間がそれを口にすることに強い懐疑があったと。彼女自身これまで苦しんできたとき歌そのものやAKBに励まされてきたから。その存在から"やりたくないことやらされながら"と発せられることは、眼差してきた人間にとってどう受け取られるのかとその場で考えが巡ったのだと思う。けれどなんやかんや彼女にとって『暗闇』はずっと聴くぐらい好きな曲に変化していた。彼女は良いと思ったらすぐに考えを翻す。見栄のために大事なことをふいにしない。そういうところがすごくかっこいい。でも変化した過程もなんだかわかるような気がするんだ。善の概念というか相手にとっての理想像を崩さぬように、実際はそうであると感じていても、それによって苦しんでいても言動を望ましいとされている方向へと規制すること。それって当人はどうなるの?顧みられることはなく、口にもできず抱えていくしかないの?って。集団を包括的善に仕立て上げると個人はそれを持続させるための機能になりかねないけど、独立した一個人としての幸福や尊重を考えたらそれぞれが思想のもと主張と行動をしていくほうが絶対いいよ。たとえそれが不道徳であっても倫理に反さなければ。彼女は自身が他者に十分に影響を与え得る存在であることを自覚している。それが特別で、だからこそ責任を負うべきであるし、権限を得たのならそれを孤独な人間に寄り添うことに使おうとする。

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永遠の先、というのはとても美しい表現だと思う。願いは叶わないかもしれない。限りなく実現しがたい。けれど思い続けること自体が希望であり、永遠の向こう側に成就する未来も内包するこの言葉が好きだ。そう思えどもこれまで実際にそんな強さで何かを想い続けたことなかったかもしれない。4月1日まで。

 

「だんだん気持ちが強くなる感じかな」

そう話していたのを覚えている。16期合宿のなかで君はペガサスの楽曲イメージについて話し合う場でのことだった。 

 

君は自分で翼を捨てて まっさかさまに堕ちていく

心が血を流し 赤い夕陽のようなロマンス

もしも二人が出会わなければ 君を失うことなく

僕は空を見上げ ずっと伝説を信じていた

 

他のメンバーは恋や悲しい感じと言っていた気がする。私も同じように悲痛さというのがまず浮かんだことだった。でもたっちゃんはそう言った。だからだんだん強く歌うことかなって。自分には感じ得ないことだった。それをこの人は感じ、それをどう表現するかというのが自身の中にある。周りはうまく掴めずのっぺりと見たものを口にしていた印象だったけれど、彼女はありありと感じているようにどこか柔らかくふうっと話していた。それが始まりだった。この人が生み出すものが気になる。特に光を放っているって。引力のある人だった。その様子をモニタリングしていた菅井先生はみんな恋愛に寄りすぎてるんだよねそっちじゃない方向に行ってほしかったんだけどと前置きし、田屋は私と表現の方向性が似ていると話していた。

 

 

熱心に好きだったのか?彼女のなにを見てきたのか?と問われると言葉に詰まってしまうし、答えたところでぶん殴られるだろうな。私が見ていたのは劇場での姿、番組での姿だけだ。SRも755もほとんど見たことがなかった。握手会も行ったことがない。あなたを知らなくとも好きだというのは詩人の考えで、知る手段があるのに知らないで、知ろうとしないで純粋に好きだなんて言うのは戯言だよね。自分でもわかってるんだ。好きだと言いながら、関係しようという努力なしに、それを何かきれいな純粋なものだと言い張るくらい寒々しいことはないと。Get you!に "気づかれなくても構わないなんて臆病な言い訳" という詩があるけれど、それを聞くたび "よく知らなくても好きだなんて卑怯な言い訳" と頭に浮かぶ。ああそれでも、この期に及んでも、私はたっちゃんが好きだと言い張る。図太い人間だよ。

 

あれはレツゴーに2回目に入った時、逆生誕でセンブロの2列目に座れた。こんな前で見れるのは初めてでたっちゃんとさきぽんと叶ちゃんを見るんだと決めてたんだ。パフォーマンスでもMCでも見上げればキラキラしたお顔がそこにあって見過ぎていた自覚はあったけど、たっちゃんばっか見てたら不意にばちぼこ目があってひゃっ!と声が出そうになった。その頃は新米おたくで劇場に来るのも4回目でこんな前に座ったことないし公演中にアイドルとこんなはっきり目が合ったのは初めてで、あー絶対気持ち悪いばばあだと思われた…とちょっとへこんだ。そしたらお見送りでたっちゃんに「ねえ!結構目合ったよねえ!😁」と言われ、その言い方がとても子どもっぽくて中学生らしくて可愛くて。7歳も年下の子に声を掛けられて気恥ずかしくて頷くことしかできない自分も恥ずかしくて。でも本当にニカッて聞こえるくらい眩しい笑顔だった。でもそれが最初で最後で、以降お見送りでたっちゃんから反応を得られることはなかった。それは当然のことなんだけどね。言葉に出さなければ、行動に移さなければ通じる筈がないのにたっちゃんのファンなんだってどうにか伝わらないかな〜なんて勝手で都合のいいことばかり考えていつもお見送りで手を振っていた。握手会に行けば違ったかもしれないのに。でもあの当時13歳で去年までランドセルを背負っていたと考えるとどうしても気が引けた。合宿で彼女の解釈と表現に途轍もなく惹かれたあの時は、年齢とか関係なしに一人間としての魅力に惹かれただけだったのに。

 

会いに行きたいけれど踏ん切りがつかず1年が過ぎ。レッツゴー研究生公演は終わりアイドル修業中公演が始まっていた。1年経って私の目も肥えてきた。当初は自分が全くダンスできない人間だから何でもすごいすごい〜と見ていたし、パフォーマンスの如何とか巧拙とか全くわかっていなかった。劇場公演に入る回数を重ね、オンデマンドに齧り付き、あとは栄さんを好きになったのも影響してるかもしれない。いつからかわかるようになってきてた。しかも、前後列入れ替えとか移動とかでぶつかるとんあ"あ"あ"となる面倒くさいタイプのあれに。AKB劇場だと柱の関係でステージ全体が見れないのとちょっと薄暗いのとカメラワークが神なので通常で見てたんだけど、栄さんオンデマは専ら定点だった。修業中や手つなを定点録画しておかなかったこと今でも後悔してる。でも通常カメラでもたっちゃんの全力ダンスは際立っていた。ステップ幅と大きさと勢いとジャンプの高さ、体のひねり方とか全力具合とかなんて言ったらいいのかわかんないけどパフォーマンスの全てが好きだったんだ。繊細で感受性豊かで人の心を揺らす歌声に、溌剌としていて気持ちが良くて見ていると楽しくて元気になれるダンス。どの公演でもジャンプはたっちゃんが1番なんじゃないかってくらい。伸びがある跳び方をするんだ。滞空時間が長くて着地する時もストンと落ちるんじゃなくてふわりと。誰よりも高く気勢に満ちたジャンプにずっと変わらないままでいてと何度思ったことか。どしょっぱなからブチかまして踊るたっちゃんをみるのが本当に楽しくて楽しくて大好きで。そして忘れもしない14歳の生誕祭。田屋ちゃんは子供感があるから推しでなくてと言われるのだとスピーチで顔を歪め涙を流していた。年齢という当人の努力ではどうにもならないことが不利に働く理不尽さに苦しんでた。それが彼女の受難であったのだとあまりに深い眉間のシワとその慟哭に思い、そして刺さった。だって今までの私の考えは彼女の苦しみを助長するものであったし、不当だった。

 

私が中学生、というより若者と接触することに恐れを抱いているのには少なからず過去のこともあった。まだ坂のファンだった頃とても素敵なひとがいて、姿形に惑わされず乃木坂を真摯に見つめようとするその目に驚いた。しかも彼女はまだ中学生だという。言葉遣いから表現の仕方まで愛に溢れどこか成熟したような印象がありOLなのかと思い込んでたから衝撃だった。中学生でこんな考えができるなんて成長したらどうなってしまうのだろうと末恐ろしく、また楽しみでもあり。彼女は不思議に私を慕ってくれていて私の言葉に熱心に耳を傾けていた。ただふと言ったこともスポンジのように素直に吸収していた。そして次の言葉をせがむ。私は途端にこわくなってしまった。無垢な目にたじろいだと言った方が正しいのかもしれない。機微を捉える力があり、多くに触れ多くを吸収する若く揺れる時期。自分の些細な一言が思春期の少女に何かしらの影響を与えるのだと思うとその責任の重さに耐えかねた。中高の教師というのはよく学生と交流できるものだとも思った。人が人に関係していくって本当に奇妙なことだ。私よりもっとずっと賢い人だったからそんなものは無用な心配だったのかもしれないけど。アイドルといえどもこわかったんだ。握手会といえどもこわかったんだ。数秒といえどもこわかったんだ。それこそ無用な心配なのにね。でもスピーチを聴いてようやく決心できたんだ。握手会に行こうって。タイミングやら経済状況やらで結局スピーチから1年後になってしまったんだけど、今年の8月11日浴衣祭りの日に取ったんだ。その頃には就活も終わっているだろうし、やっとたっちゃんに会える!って。21歳が半年後を楽しみにスキップでもする勢いでだよ。券も届いてたんだ。そこに卒業発表があって。

 

それにしても、卒業発表のたびに耳にする会える時に会っておかないと云々という言葉は使い回された古い呪文か何かなのか。私はこの言葉が苦手だ。愛ってそんなセールの時に買い溜めておけみたいなものじゃないだろう。人はその人のタイミングでしか会えない。だからその時が大事なんじゃん。後悔のないようになんてよく言うけれど、人を好きでいることは後悔するってことだよ。そのヒリヒリと尾を引く後悔が愛なんじゃん。その後悔は人生における傷になるかもしれない。悔いて心がぐしゅぐじゅして痛くて苦しくて薄暗くて。でもそういうものをだいじに抱えていつまでも傷であってほしい。私はそう思ってしまう。記憶とはある意味で裂傷だ。次第に薄れていくし、傷は何かしらに依拠する。ひとりでに無から生まれるわけじゃない。何かのために努力し怪我をすることを勲章と言うだろう。何のために傷ついたのか。痛くとも辛くとも悲しくとも苦しさに苛まれても大切にしたい傷はある。できることなら薄れずに。

 

とても現実のことと思えなくて、その文字の並びは不可解で意味が通らないと思った。そしてあまりに淡白で。こんな日が来るとは思っていなかった。私は夏になり楽しそうにはしゃぐ姿を見れば次の夏にはここにいない人がいるのだと、これは静かな最後の夏なのだと悲しくなる人間だった。誰にとっても最後の夏である可能性があるとそれだけは心に留めておこうと努めていた。だけど…たっちゃんにだけは変わらず次の夏がくると信じ切ってた。「AKBのファンでなくなってもたっちゃんの成長だけは見ていたい」だとか「たっちゃんが高校卒業して成人するまではAKBのファンでいる」だとか言ってたくらいだ。どうして信じるという奇癖をやめられないんだろうね。あっという間の少女と言うには早過ぎた。卒業発表から活動終了まで約2週間。投げたけど30日も1日の公演も外れてあ〜やっぱ駄目かあ…絶対当たらないだろうなと半ば諦めてた。でもビンゴで優勝して立ち見で死ぬより指定席で応募しようとダメ元で投げた女性枠が当選した。ちょうどタピオカを飲みながらドーナツを頬張るという休日らしいことをしていて、片手間にいじっていた携帯をいつもの癖でメールを開いたところ。よくわからない声をあげてしまった。氷の間に残った飲み物をストローで吸い上げたときみたいな不快で大きい声。後悔はいつまでも続くのだろうけど、最後に救われたような心地で。帰りに黄色い便箋を買った。

 

この日のことはうまくまとめられそうにないからごちゃまぜに書くね。

本編

開演前BGMがチーム坂ってふつうに反則じゃんね。岬へ続く道全力走ろうか?だと、これから美咲へ続く道全力走るんじゃ〜〜心臓破りの坂だってどんとこい〜〜となった。チーム坂といえばこの歌い出しでたっちゃんを映す粋なやつよくしてたしね。千秋楽もそうだった。私はねチーム坂のあの日の光こそ青春そのものだという歌詞が好きで、レツゴーで踊る姿を見ながら今この瞬間が光で青春だよと何度も何度も思ってた。けどねあの日の光じゃなくて正しくは怒りだったんだ。1年強も聞き違えててそれに気づいていなかった。あの日の怒りこそ。でも何十回聴いても私にとっては光で、劇場の熱気の渦の中で燦然と輝いている光景が焼きついててやっぱ光でしかない。チーム坂でこれまでのたっちゃんを思い出し、また今日は卒業公演なのだという事実を突きつけられた気がする。とはいえども。公演が始まってみても、これは永遠に失われてしまう瞬間なのだとどれだけ言い聞かせても、雲の上を歩くような実感のなさしかなかった。目だけは逸らせずにただ1人だけを見て。知ってる?僕らの風のステップはたっちゃんのものなんだ。あの弾むような軽やかで力強いステップは先輩だって後輩だって誰だって敵わないんだ。僕らの風もマンゴーNo.2も手つなもチャイムはLOVE SONGも誰もたっちゃんのステップに勝てやしない。重心の移動から大きな動きを支える柔軟で瞬発力のある筋肉から膝腰の入れ具合から、言葉にするのが難しい踊り方の癖までこんな全部全部好きな人他にはいなかったと今になってすごく思うようになってしまって。ユニット1曲目はGDだったけどメインの3人じゃなくてあんなにBD見たのも初めてだったな。たっちゃん見てようと思ってたし実際見てたんだけど視界の隅に入る彩希さんの動きが良すぎてパッとそちらを向いてしまったのも良い劇場公演って感じだった。チョコの行方ではいつもは地蔵な私もあ〜やきもきやきもき〜!とコールしちゃったりさ。コールは声出すまでが遠いけれど声出してしまえば楽しい。ユニット明けは最後だからチョコの行方メンに何でも言いたいことってお題だったね。さややさんは同じ髪型ばっかだから他のもしてほしいとか、馬嘉伶さんは髪切って茶髪にしたのがすごく似合ってるとか、彩音ちゃんは細すぎる楽屋が隣だけどめちゃくちゃはみ出してくるとか。とりとめもないけど大事な時間だった。なんだかね馬嘉伶とか彩音ちゃんの茶髪見てたら、この先たっちゃんが髪染めてショック受けてああでもやっぱり明るい色も可愛いねって言える未来がきてほしかったよとシュンとしてしまった。中盤のinnocenceはとても普通な感じで踊ってた。これについてはまた後で話したいことがあるんだ。この日の公演で(というか4で?)マイク持てないのたっちゃんだけで、そうか…まだマイクを持てない歳のままで…とそこでも悲しくなった。MCもね、MCもよかった。無茶振りコーナーで大西さんの考えた台詞にえ〜こんなの言ったことないよ〜とくねくねして照れてたのが、昔からずっと変わらずのたっちゃんでさ。彩希さんが話してたけど私はねたっちゃんが強めに言う時の「〇〇なんですけどッ」って言い方が本当に好きなんだ。なんか食い気味でちょいヒステリックな感じで言うんだよね。それが可愛い。大好きは噛みしめるしかなかった。このままずっと見つめていたいそれだけでいい他には何も見えなくなる。夢の中でもあなたが出てきて切なくなる。たっちゃんはにこにこしてた。なーみんは泣きそうになって一瞬顔を顰めるのだけどすぐ笑顔をつくるんだ。それが悲しくて優しかった。なーみんが少しでもたっちゃんの意向に沿おうと泣くまいと、抑えられる筈のない感情を笑みで包もうとするのが。

 

EN

たっちゃんはロープの友情が手つなの中でもいちばんに好きらしい。らしい、というのは1S動画で手つなでいちばん好きな曲をリクエストされた際にロープの友情を歌っていたからだ。意外だった。でも彼女の信念に当てはまる曲なのかもしれない。自分だけが利を得ることは絶対にしない、打算で動かない。そういう選択をするくらいなら義に死す。人として正しい行いをして、有限である人生をよりよく生きようとする。まだ若く青いからこそなのかもしれないけれど、腐った果実であるほうが容易な場所でそれを貫こうとするのはすごいことだ。思えば、彼女は不健康なものを迎合しなかった。それが表現のためであっても。たっちゃんのダンスは大きい動きの全力ダンスだ。48Gの中学生メンバーはこのタイプの踊り方をするひとが多い。アドレナリンがどうかしちゃったのかと思うくらいすんごい動きを繰り出すから見てて楽しいやつだね。このタイプの踊りをする中学生は大抵声が大きくて元気だしよく駆け回る。でもたっちゃんがあの踊り方をしていたのは元気だからってだけじゃない気がして。彼女のダンスはどこか竹を割ったようなこざっぱりとした印象があった。不健康なものを迎合しないと言い切ると語弊がありそうだから、不健康な解釈はしていないようだったと言い直すね。そこに彼女の意思が介在したのかわからないし、私がただそういうように思い込んでいるというだけだから。事実であっても、またそうでなくとも、人からそう捉えられるような真っ直ぐなひとだったのだと思って読んでもらえたら。innocenceやJK眠り姫はそれが顕著に表れているように私は受け取れた。innocenceってみんなそういうものに照らされた顔をするじゃない。少し目を細め不敵に微笑んで。でもたっちゃんは平生とあまり変わらぬ動きと表情でいる。それにアッパーとダウナーを同時になキメたような、ハイに向かいながらダルさの中にいるような狭間感とどこかセクシャルな雰囲気のあるJK眠り姫でも快活に踊ってる。それがちょっと不思議だったんだ。表現し得る力も感性も人より秀でているのに何でだろうって。だからこそだったのかもしれない。人としての在り方に敏感で思案してきたのかもしれない。倫理観が高すぎるんだ。そう実感した出来事があって、この卒業公演の日の午前中にSHOWROOMをしてたんだ。私はちょうど手紙をしたためいて見れなかったから後日アーカイブで確認したのだけれど。芸能人にはよくある荒らしコメントがあったみたいなんだ。たっちゃんは悪い癖でそういうものを目にして沈黙することができないのだと前置きして、毅然とした口調で話し始めた。語尾が強くなってて静かにキレてた。そして最後に「1回しかない人生なのにそんなことをして楽しい筈がないよ」と言ったんだ。我慢ならなくて物申し始めたのはああ若いなと思ったのだけれど、その一言に青いでは片付けられないなと思ったんだ。中学生って変な時期だ。確固たる道徳心を持ちながら安々と狂乱に身を任せられる。たっちゃんだって人としての在り方を真剣に考えながら、楽屋で下着姿で駆け回ったり大声で歌い回ったりもしてる。なんだか台風クラブを思い出す。中学生が下着姿で踊るんだ。初めに見た時はこのシーンが本当に無理だった。彼らを取り巻く諸問題を忘れようとするように体育館で踊りながら服を脱いでいく様子はモラルが退廃していく瞬間を見ているようで吐き気さえ覚えた記憶がある。雨の中下着で踊ってる場面はもう。

ボールを投げている少年、三上くん。彼も人としての在り方を真剣に考え、軽薄なものを嫌っていた。このシーンの前に担任の梅宮と電話していたんだ。若き日の理想を失った男だ。教師だけどやくざ者とつるみ女にだらしなく酒に酔ってる。生徒のことも半ばどうでもいい。「先生、僕は一度あなたと真剣に話してみたかった。あなたは悪い人じゃないけれど。でももう終わりだと思います。僕はあなたを認めません!一方的すぎるかもしれないけれども」「何言ってんだ馬鹿野郎。俺はなぁ…酔っ払ってるかもしれないけどよく聞こえてんだぞ。いいか、いいか若造。お前はなぁ、今どんなに偉いか知らんがなあ…15年も経ちゃあ今の俺になんだよ、えっ?あと15年の命なんだよぉ…覚悟しておけよ」「僕は絶対あなたにはならない。…絶対に」というやり取りがあった後だった。だからケンが俺たちも酒ほしいなと言うのも、あの三上くんも皆んなと同じように下着姿で踊るのも分からなかった。 しかし今はなんだろうわかるな。これが人間の姿だって。悲しいくらいに。このシーンが一番美しいすら今では思う。中学生というのは人間であることの真実を包括している。我々は善も悪も克服することができない。本当は胎児のように守られていたくて自分と世界との不和になんて目も向けたくなくてどうにもならなくてふしだらになっていく。それでも軽薄にならぬ道を歩もうとする人が一定数いる。たっちゃんもそんな人なんだと思う。そういえば栄のD3ゆうゆも2じゃないよでたっちゃんのようなことを言っていたね。年上やぞ年上やぞと言ってくるディレクターに対して、年上だと言って子供を脅す(怖がらせて楽しむ)のは人生損してると思いますとはっきり反論していた。中学生の正しさと高校生の正しさは違う。道徳的正しさとは即ち直観で、中学生の正しさとは直観そのものだ。高校生になるとなぜだか直観は少し薄れてエビデンスに依るようになる。最近つくづく感じるのだけれど人間とその生き方に興味があるのなら中学生から学ぶことは山のようにある。

 

これたっちゃんが読んだら全然違いますけどッ!って言われちゃいそうだな。こじつけっぽくなってきちゃったけど、たっちゃんの全部が好きだったってことを繰り返し言いたいんだ。にしても伝えるのがへたくそだね。手つなの話に戻るけどロープの友情は死地の曲だから音も強く激しくて、観客の方もおかしいぐらいガン上がりする。そしてロープの友情で上がりまくったギアを軽々超えていく火夜水朝。いつも思うけど手つなのENブッ飛ばしすぎてて頭おかしい。頭おかしいくらい高まって訳わかんないことになる。不健康なものに染まろうとしないその姿勢が好きなのだと言いつつ、私はどちらかといえば不道徳で不健全な詩の曲が好きだ。だから手つなで一番好きなのは火曜日の夜、水曜日の朝。どの瞬間もピークだったのだけれど、格別に美しい動きに心奪われた瞬間があった。体をひねるときの曲線がしなやかで本当に言葉にできないくらいの美しい流形だった。なんていうかたっちゃんぽくないとも思った。イメージではうおりゃってやってそうなのに。2018年のAKB劇場公演出演回数最多メンバーに輝きインタビューされた際に、自分はただ全力だから彩希さんのように細部まで丁寧な踊りがしたいと話していたのを思い出した。こうやって丁寧さとパワフルさのハイブリッドパフォーマンスが確立されていく筈だったのだと思うともう。本当に美しかったのにオンデマで見返したらそうでもないように映ってて劇場では自分の目しか頼れないなとなった。見た時の角度もあるからね。火夜水朝終わりのかなたっちゃんの顔が赤く茹であがっててあの感じ見たの久しぶりな感じする。でもその赤い顔はこの公演が終わりに近づいてることも意味してた。

「今日は田屋ちゃんにとって最後の劇場公演です。今日の公演がこの先の田屋ちゃんの人生の中でずっと思い出に残る公演になれたらいいなって思います。そして今日ここに観に来てくださった皆さんも今日の公演を忘れないでください。私達も絶対忘れません。次の曲は皆さんのことを想って歌いたいと思います。それでは聴いてください。遠くにいても」

 

春めいたそよ風の中 君は隣でバスを待つ

夢だけを鞄に詰めて 今 旅に出る

新しい時刻表で

君が選んだ 遥か輝く道

遠くにいても空は続いてる

生まれた街と繋がっている

雲と心はいつでも自由に行ったり来たり

遠くにいても空は続いてる

同じ時間が流れている

今日は別れを告げても僕たちはそばにいる

 

すすり泣く声が周りから聞こえてくる。私も顔を歪めてた。鼻がツンとする。もう二度と会えないのだ、どう生きているのか知ることは叶わないのだとそう思った。空は繋がっていても変わることが多すぎるよ。市野さんの卒業公演で江籠さんが言っていたことがふと頭に浮かんだ。あの時江籠さんは卒業しても関係性は変わらないという言葉が辛いのだと話してた。関係性は変わらなくとも、環境は変わる。これまでのように一緒にいられないと泣きながら。竹馬の友のような二人における言葉だとは重々理解しているけれど似たようなことを思ったんだ。たっちゃんへの想いは変わらないけれど、環境は変わる。劇場に立つ姿は見れなくなる。空は続いていてもその下にあるのは彷徨ってる空虚な自分だけな気がしてきてしまった。そうではないよと歌ってる曲なのに。途中から顔面の右半分が痙攣し始めた。心に負荷がかかりすぎたっぽい。でもね"君が今眩しいのは強い意志の光"でハッとした。卒業発表してからこの日までのたっちゃんの姿勢、立ち居振る舞い。本当にきちんとした人だった。ピアノの伴奏が卒業式を思い出させる。悲しさを粛々と受け止めながらじっと見てることしかできなかった。

 

卒業パート

何の曲をやるかはわかっていた。それでも明転し16期が並んでいる姿が見えると心が躍る。たっちゃんセンターの抱きつこうか? 。最後に入ったレツゴーぶりに16期コールして、ステージの上でみんな泣き出して。その真ん中に笑顔のたっちゃんがいて。あの日が戻ってきたみたいだった。衣装も卒業公演用の特別仕様になってて素敵だった。16えんぴch!の黄色衣装だね。色鉛筆の髪飾りはティアラに、襟には金のラインがあしらわれ、リボンはジャボに、スカートは黄色のギンガム生地をプラスしてフィッシュテールになっていた。ほんとオサレカンパニーは"この世界であなたのためだけに存在する特別な衣装"を作る天才だ。抱きつこうか?は高校生が夏の間1ヶ月だけのバイトで出会った先輩についての歌なんだ。優しい先輩が多くて楽しいのだけれど1人だけぶっきらぼうで怖いなと感じる人がいて。でもそのままあっという間に夏は終わってしまう。今日で去るという日に、その先輩にもお世話になりましたと言いに行くと柄にもない一言を掛けられるんだ。気の利いた言葉でもなく相変わらずぶっきらぼうだけど好意の滲んだね。明日からもう会えないというのに意識してしまって好きって気持ちが芽生えてしまって…という話だ。もしかして好きなのか 自分でも気づかなかったけど もう会えないと思ったら胸がキュンとしてきた、って16期が歌ってる姿を見たら…こんな小鳥が軽やかに跳ねるような可愛らしい曲なのにこの日ほど重さを感じたことはなかった。こんなに限りない重さがのしかかることなかった。明日からもう会えないと思ったら、どうしたらいいのか私にはわからないよ。あっという間に曲が終わってしまった。たっちゃんは嬉しそうに明るい顔でピースしてた。16期みんなの顔を見回して、泣いて悲しく切なくてどうしていいのかわからなくて張り付いた表情をしている様子にプッと噴きだすんだ。周りがみな泣き卒業するその人は笑っている光景というのはよく見るけれど、そんな風に思い出の曲でも笑顔だったたっちゃんがサプライズで渡された花束と色紙に瞬く間に泣いてしまったのがあまりに切なくて悲しくて。ずんちゃんのおめでとう卒業の声はとびきりの愛が込められていた。そのあとの卒業のスピーチは簡潔にしっかりとした内容で彼女らしかった。…最後の曲について話す前に最後の曲が終わった挨拶前のやり取りについて話すね。

 

必要のないことは話さないし嘘はつかない。もうやり残したことはないですか?という彩希さんの問いにたっちゃんは暫し思案し言葉に詰まった。この卒業公演ではやり残したことはなかったかもしれない。けれど問いかけられ彼女が考えたのは、これまでの2年半とこれから続いたかもしれない何年間で。だからどこか歯切れの悪い反応だった。でも口をきゅっと結び大丈夫です!と強く答えた。…去年は劇場公演出演回数最多だったしね。シアターの女神と名高いゆいりーさんの5連覇を阻んだすごい記録だった。前述したように全力ダンスからゆいりーさんのように丁寧な踊りをしていきたいとも語っていたし、卒業発表の何日か前まで4月以降の握手会の宣伝もしていた。人を騙くらかすようなことをするひとではない。卒業が本意ではないことは自明だった。新潟の件が絡んでいると邪推してしまうくらいには。未成年で中学生だから両親の意向でとは十分ありえる話だ。でも私はホッとしたような気もするんだ。たっちゃんのご両親が至極真っ当な方で至極真っ当な判断をし実行したことに。まともでいるには捨てるしかなく、まともなままではまともでいられないし、まともなら離れる。そういう場所だとそれは前から思っていたことではあった。卒業には諸々の事情や葛藤があったのだろうけれど、彼女はネガティブなことも不平も弁解も口にしなかった。そう心掛けているようだった。ただ今この瞬間しかない公演を全力で楽しんでいた。それがすごくすごくかっこよくて、すごくすごく大人だと思った。普通ならやけでも起こしそうだ。どう考えても彼女がいちばん卒業したくない筈なのに自分の意思として遂行しなきゃならない。大声で叫びたくもなる。でもそんな気持ちでいるより、限られているのならその時間を精一杯に生きるってそういう選択ができることがすごいし、たっちゃんはずっと筋を通してきたんだ。だからSR配信でああ発言したんだろう。1回しかない人生なのにそんなことして楽しい筈がないよと。低きに流れ、そうである方が容易な方へ身を任せて暴慢に自棄に生きて。彼女がアイドルであることを望んだ日、望み続ける日々、その1日を中学生への中傷に費やす人間を見て何を思ったのかということだよね。たっちゃんは泣かないというのも決めていた。暗い顔はしたくない見せたくないと強く決意していたようだった。泣いてしまったら押し寄せる愛着にどうにかつけた踏ん切りが崩れてしまうというのもあるかもしれないれど。これからの人生を歩むために、そして私達の心も汲んで全力で駆け抜ける姿は本当に14歳なのかと疑いたくなる。もうヒーローだった。

 

きっと最後の曲は365日の紙飛行機だろう。彼女は山本彩さんをとても尊敬していて、同じ色のギターを買ったり、リクアワ裏配信で会えた時には嬉しくて号泣したり。彩さんと同じ誕生日なのだと自慢げに話すのを何度聞いたことだろう。

 

私にとってはこの曲が劇場公演最後の曲になります。

それでは聴いてください_____10年桜

 

劇場がどよめいた。私は個人的にこの曲があまり好きでないというか、皆のいうような良さは今まで感じられないでいた。それが一夜で全て変わってしまった。前にいるその人が、本意でない早すぎる卒業をする人が卒業はプロセスさ再会の誓いと歌うんだよ。10年後にまた会おうって。すぐに燃え尽きる恋よりずっと愛しい君でいて、でもうだめだった。そのままたっちゃんについてだったから。一節一節が大切で大事で、彼女の言葉であり私たちの言葉だった。今日という日を忘れないと何度誓いを立てたか。10年後に会えるかなんてそれが難しいことなんてわかってる。それでも彼女の口から10年後にまた会おうと発せられたのだ。永遠の先に心を馳せるには十分だった。10年桜は永遠の先。叶っても叶わなくてもその言葉があれば十分だった。

 

たっちゃんの卒業でいろんな曲が特別に意味を持つようになってしまった。10年桜もそうだけどジワるDAYSも、365日の紙飛行機も、君はペガサスも、僕だけのValueも。というより卒業公演から1ヶ月ぐらいどの曲を聴いてもたっちゃんを思い出してしまいずっと感傷に浸ってめそめそしてた。それまでジワるDAYSは可愛がってた指原さんの卒業シングルなのにいつも宛名書きする秋元先生には珍しく抽象的な歌詞だなと思うに留まっていた。でもメロディーは好きだからたまには聴いたり。本当はジワるDAYSに切実さなんて感じたくなかったよ、特別に感じたくなんてなかった。けどたっちゃんの卒業発表があってからそうなってしまった。いつもチクリと刺される歌詞があるんだ。"桜の花が散ったって他人事でしかなかった" 誰かの卒業も、そしてその卒業を嘆き悲しむ人の心も、いつか自分にも降りかかることなのだと考えることさえしなかった。他人事だったんだ。卒業に悲しむこと自体は当然あった。ただ、たっちゃんを思うほどの強さではなかった。特別に好きだった人がこうしていなくなるとこの曲でボロボロになってしまう。ホントは今でもそばにいてほしいよと泣きつきたくなる。でもあんな前向きな姿勢で生きている人を引き止められる筈がないんだ。たっちゃんはお見送りでも必ず1人の人と2回顔を合わせていた。警備員さんが前に立ってるからその手前で1回、その後ろで1回。みんなにそうしてた。優しい人だよね。私は結局何も言葉を発せなかった。でも目に全部感情が滲んでいた。自分で自覚するくらいには。たっちゃんはその目の温度もわかってくれた顔をした。勝手な妄想じゃんと思った?でも本当にそうだったんだ。そういう表情をしていた。それがずっと忘れられない。

 

卒業が機となって彼女の色々な側面を見たけれど、つくつぐ私はたっちゃんのことを何も知らなかったのだと実感した。元気だけどシャイな東京の女の子で、大声を出すのが得意、楽屋では走り回って歌うことが大好きで気持ちのよい全力ダンス、MCではお肉か犬の話をしがちな可愛い可愛い16期の末っ子たっちゃん。それが私の中のたっちゃんだった。でも私の思う何百倍も何千倍も大人だったし聡い人だった。落ち着き払って毅然と自分の意見を述べるところだって知らなかった。指ハート頻繁にしたりファイティンって言われてたりいかにも中学生のノリで韓国好きっぽいのも知らなかった。でもね活動最終日のSR配信は私の知ってるたっちゃんばっかだった。歌ってぼりぼりとじゃがりこを食べ、帰りの飛行機で寝ないで人狼してたら今になって眠くなってきて喋らないと寝そうだからって早口言葉みたいにとりとめない名前や名詞を繰り返し言ってみたり、コメントでわからない言葉があったら今近くに辞書あるんだ!と引いてみたり。いぇいいぇい美味しい〜♪と突然麦茶のCMつくり始めたり。中学生だから20時までしか配信できないんだけど7時ちょい前にお腹すいたからご飯食べてくるねと一度配信を切ったり。晩御飯から帰ってきてからはずっとカラオケ機能で歌ってた。虫のバラード、チーム坂、家出の夜、365日の紙飛行機、抱きつこうか?。歌い終わって壇上やタワーを読み上げたら時間はもう30秒しかなかった。じゃあ手振っとくねといつもの顔で溌剌とバイバイと言ってるからこれが本当に最後だって気はしなかった。けどもう明日からアイドルではないし劇場で踊る姿が見れない。それが信じ難くて、実際その日が来たらもう駄目で、あれから刺青をするようにオンデマを何度も何度も見た。だから手つなの定点なら他の人の上からたっちゃんの踊りをリアルタイムで上書きして見れる。それくらい見込んだ。でもそれは時間の止まったずっと変わらない踊りだ。本当のたっちゃんはこれからどんどん踊り方も表現も変わっていっただろう。こんなことできたって、したって意味なんかないんだ。最低だよ。上書きするメンバーにも失礼だし。それで手つな見てて思ったんだ。4には彩希さんも奈々さんもなぎ太郎君もなーみんも妃星さんも濵ちゃんもみゆぽんさんも七海さんもはーちゃんも香織ちゃんもずっきーもまきちゃんもさややさんも薫君も京加ちゃんも吉橋もいる。いっぱいいっぱいすごい人がいる。今は村山チーム4を見ていくことがたっちゃんとの唯一の繋がりに感じられて。これからどう過ごせばいいのかわからないけど、それでもどうにかして過ごすことになるんだから。そうやって永遠の先を想っててもいいよね。

 

(卒公と彼女が全力で楽しんでいた3月30日の動画です。同期が7人も出演していて同期とたっちゃんとの表情が対照的な公演です。ジワるDAYSの披露も。暫くしたら消すと思うので是非観てください)

youtu.be

 

 

 

君がいないのは寂しいけど

Someday いつの日にか会おう

卵には色があるらしい

卵なんてみんな同じような形で同じような色で大きさが違うくらい、見分けがつかない。16期生の存在こそ知れど名前も顔もわからない私にとって彼女達は白く小さく均一な鶏卵であり、その殻の内側を想像するどころか個を個として認識できず卵はどこまでいっても種でしかなかった。だって卵を1パック買ったとして、その1つ1つに個性を見い出すことをしないでしょ、区別することができないでしょ。少なくとも私はそうだし。だけどそんな状態でもかろうじて知っていたのは、田口愛佳さんと武藤小麟ちゃん。でもそれは16期のシンボルとして、十夢さんの妹として認識していただけのただそれだけだった。あと初めて行った劇場公演、ヨシマサさんプロデュースの神曲縛り公演(2017/09/11)に叶ちゃんとなーみんが出演していたらしいけど存在すら覚えていなかった。けれど今になっては人並みに熱を上げて前田前田たっちゃんたっちゃん言うようになってるんだから。それもこれも卵が孵る瞬間を目撃したからだ。

 

ちょうど1年前。例のごとくtwitterの海で泳いでいると、16期合宿の動画が不意に目に入った。ただその呟きがどんなものだったのか覚えていないんだ。自分にとって重要だったのは、それに心動かされたという体験であり、ディティールがあやふやなんだ…これだったかな…??

 彼女のことも彼女の置かれた状況も何もかも知らなかったけれど泣いていた。歌が上手いひとではないけれど、そこに雄々しく立ち歌をうたうひとだった。菅井先生が話していたように当初播磨ちゃんはレッスンでも後ろの方にいてとても自信なさげにしていた。けれど合宿のなかで、教えのなかで、レッスンも最前列に立つようになって、先生の1番近くで学びを得よう、自己に臨み克己しようとする様子はあまりに劇的だった。今あるものを賭けて、自分を開放して力強く、まるで本当に卵の殻を破った雛鳥のようでその姿と声が何より美しいと思った。菅井先生がこんなにも柔らかく優しく笑うところを初めて目にしたし。播磨ちゃんは一見気が弱く内気に見えるけど現時点の能力や才能をまるっきり無視した強い欲というか強大な自我を持っているけれど、それは抑圧されていたんだと思う。菅井先生は播磨ちゃんの底知れなさとその抑圧されていたものとに気づいて指導していたのだと思うけれど、きっと想像以上に大きな羽で大きなはばたきだったんだろうな。私も合宿きっかけで劇場公演を観に行ったんだけど、初めてこの目で見た播磨ちゃんはめちゃくちゃ陽オーラを放っていて、、めちゃくちゃアイドルだった。まるで猛禽類の雛鳥。この人の羽はとても大きいし、鋭い嘴と爪があってとても強い。

 

16期合宿で1番印象に残っているシーン、それは田口先生が歌い出しでカメラを見て菅井先生にそういうの嫌だと言われていた場面。田口先生は楽曲世界の情景をありありと創り出すことができる人なのに染みついた器用さで様々な要素に気を配りすぎて歌に深く身を沈めることができていなくてさ。けれど最終日菅井先生が流した涙が全てだったね。本当に田口先生はAKBの申し子なんだ。小さい頃からAKBが好きで憧れてあんな風に可愛い衣装を着てステージで輝きたいと願う女の子というのは多いけれど、田口先生は限りなく善に近い信念体系であるAKBのその思想を理解し吟味し内在化させた上でイデオローグとしての特性を備えた稀有な人なんだ。1番最初に声を上げる人間、皆を先導し指揮する人間、聡く少女性とこどもらしさを持つ人間、情景世界を創り出すことができる人間。楽曲世界・歌詞解釈は感受性の比率が高く、踊りは身体技法・反復・解釈等のレイヤーによって形作られるけれど、劇場において劇的なパフォーマンスをするための核はイデオロギーだと私は思っている。だからこそ田口先生は特別な人なんだ。愛の色、薄明るく照らされたステージで光と陰の狭間、木漏れ日のような愛しさと憂愁とうらめしさがマーブルのように混じり合った田口先生の表現を見たときは息をのんだ。LODで見ていたから尚更その四角に切り取られた瞬間がモネの絵画のように思えた。

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修業中入った時は、だけど…で前田の美しい横顔をずっと眺めていようと思っていたのに、手前にいた田口先生の悲哀に満ちた表現があまりに痛々しく打ちのめされ深い悲しみの中にある人のそれで目が反らせなくなった。レツゴーでの愛の色は瑞々しさが滲み出ていたけれど、それとはまた違う強い切実さを内包していた。乱暴なことを言うけど、強い意思と若い身体があれば一点に向かうエネルギーとしての全力パフォーマンスは成立する。けれど悲哀のように深度も強度も多様なものは、方向ではとてもじゃないけど表現しきれない。田口先生は方向じゃなくて最早世界を生み出しちゃってるんだよね〜とにかく別格だ。

 

たっちゃんのどこが気になっただとか前田のこと最初は大嫌いだったとか叶ちゃんのパフォーマンスはねえとか香織ちゃんのここをリスペクトしてるとか、一人ひとり語っていけば話は尽きないけれど、ならばなぜ今まで文章にしてこなかったのかなぜ今なのかっていうことなんだよね。それは彼女達の輝きを語るにはあまりにも言葉が追いつかなかったし、その作業に費やす知識とエネルギーが私にはなかったからだ。けれどネ申すテレビの16期キャンプ回を観て、久しぶりに平穏なひとときの休息を感じた。そしてそれが戦士の束の間の休息であるようにひどく感じられた。レツゴーも終わり、昇格組と研究生組に分かれ、なぎゅ様と和泉ちゃんが卒業していって色んなものがいろいろと急激に変わっていったこの1年で、自分が眼差してきた16期について書き留めておきたかった。あのキャンプ場が比喩でもなく本当に16期の楽園だった。足並みを揃える日々。足並みを揃えるといっても、みんなと一緒に居たいがために実力より低い程度で人に合わせることではなく、16期においてはキャンプ場に向かうあの道すがらだなと思った。目指す場所があり、談笑しながらなんとなく固まって、駆け出す者もあればゆっくりと歩く者もいて。その塊の中で前にいようと後ろにいようとそれは能力となんら関係がなくて。ハイキングのようにみんなで目指すものだったんだ。実際には高く険しく過酷な環境で穏やかさとは無縁だったのかもしれないけれど、こんな風に感じるくらい連帯が強くて和気藹々としている人達だった。プールで容赦なく水をかけあったり転ばせたりさ。美波ちゃんが田口先生と播磨ちゃんにびしょ濡れにされて、なーみんがお姉さん口調でどうしたの〜と言うと、違うの違うのと美波ちゃんがいつものうわ言のような話し方で呟き、私が助けてあげるよ!と爽やかお兄ちゃんのずっきーが仕返しにバケツいっぱいの水を向こうにかけようとするも勢いよくその場にボトリと落ちただけでやっぱ駄目だった…としょんぼりしてるこの光景がマジ16期って感じ。往々にして同期というのは特別な情緒的繋がりがあるけれど16期は殊に強い。友であり同志であり家族であり。それが、結びつきの強いあるメンバーとは、というレベルでは他の期でもあるのだろうけれど、彼女らはみんなとそうなんだ。まるで18人姉妹のように。

 

だからこそ繋いでいた手が離れていく様を、空を切る様を、昨日までそばに居た人がそこにいない様を見ると余計に悲しくて。悲しくて悲しくて仕方なくなる。AKB劇場はカメラマンさんもスイッチャーさんも劇場という場所の特殊性を充分に理解した上で演出にシフトした仕事をしているけれど、遊び心というか粋な計らいをよくする。歌詞にメンバーの名があるとその人を映すんだ。チーム坂の歌い出しが"岬(みさき)へ続く道"なんだけどそこでたっちゃんこと田屋美咲(みさき)ちゃんを映したり、"先"と歌詞にあればさきぽんを映すって具合にね。先日庄司なぎささんが卒業した。学業のためとのことで発表即日の卒業だった。誰にとっても予想外で突然のことだった。しかも彼女は研究生の中でも人気も実力も申し分のない人で、地盤も固まりつつあったから尚更に。さながら訃報のように、なすすべもなく別れの言葉を伝えることもできず突然の知らせに混乱した。16期の中でも彼女がいちばんに愛情深い人だと私は思っているんだ。あまりにも愛情深く道徳心が強く、それでいて人を恐れ自己不信に苛まれながら揺れて苦悩して、柔い部分が剥き出しになってるのにそのために苦しむのに体当たりで向かっていくそんなところが好きだったんだ。迷いなく立場の弱い人に手を差し伸べるところも。だからみんなに優しくて安心を与えるなぎゅ様自身の心に平穏が訪れてくれればと思っていたけれど、そんな未来を見届けることはできなくなってしまった。…それでね、"渚"って歌詞が出てくるとやっぱりなぎゅ様が映されていたの。そばかすのキス、ライフセーバーのあの人と出会ったこの渚。アイドル修業中公演で踊っていた曲だけれども彼女は千秋楽を迎える前に卒業した。いつものお決まりはなくなって、他の部分と同じように日ごとに映される人は変わった。そのことが何より彼女の不在を強く感じさせられる箇所だった。他の子が映されるたびに言いようのない悲しさがあった。なぎゅ様の卒業から2週間後にあった修業中千秋楽、私は目頭が熱くなってしまった。"出会ったこの渚"で誰もいない空間が映されたんだ。ずるいよ、としか言えなかった。それはなぎゅ様の不在が顕になるというより、なぎゅ様もそこにいて一緒に千秋楽を迎えているようなそんな粋な計らいだった。だってその瞬間いつものだ!と思ったんだ。渚でなぎゅ様を映すいつものやつだって。 

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…本当に色んなことがどんどん変わっていくけれど、やな人間だから"あの日"の影を追ってしまうし、あの日のままでいてほしいと思ってしまう。でもそれは希望の明るさを目指して進む人と反対の方向で。結局のところあの日は過ぎ去るだけで、あの日を求めれば失い続けるしかない。皆が同じ卵から生まれるわけではないのだから、同じ空でも同じ軌道で飛ぶわけじゃない。そもそも白く均一だなんてことはなかったんだ。それまでは同じ色の同じ卵にしか見えなくとも、違う色の違う卵だったんだ。プリズムを通すと波長が分化していろんな色が見えてくるじゃん。いろんな色で見えてくる。プリズムというのは興味なのかもしれない。だって世間の人はこう言う、AKBはみんな同じ顔に見える。そんなことは絶対にありえないのに。卵にはそれぞれ色があり自我も環境も絶えず変わっていくし、それを心が硬化して停滞している私のような老人がしがみついてるわけにはいかないし、引き留められるはずもないんだ。あの日を求めるというのは、鳥の足を地面に繋ぐことや風切羽根を切ることに似ているのかもしれない。本人達も兄弟たちと育ってきた雛鳥だったあの日を求めてる節があるけれど、それでも飛んでいかねばならないし、どこへ向かうかは自分で決めなくてはならない。たとえ1人の道でもね。これは又聞きしたことだから信憑性が微妙だけど、鳥は全身の30〜40%が飛行に必要な大胸筋になっていて、ボクサーの減量のようなことを一生し続けないければならないと。さらに飛ぶためには換羽といって1年で全ての羽を生え変わらせる必要があり、そのために多大なエネルギーを消費すると。そして天敵もなく餌も豊富な環境にいると鳥は飛ばなくなり、飛ばなくなった鳥は巨大化していく。だから鳥は飛ばなくてもいいなら飛びたくないという趣旨の内容だった。何だか考えさせらるような話だけれど、人間も無菌でノーストレスな環境にいるとおかしくなるし、肥育された鳥、特にアヒルを見たときの奇妙で恐ろしい感覚を思い出してしまう。飛ばなくてもいいなら飛びたくないは、起き上がらなくてもいいのなら起き上がりたくないと同じなんじゃないか。そう言って起き上がらなきゃずっとベッドでゴロゴロしていられるかもしれないけど筋肉は弱り脂肪がつきやすくなり血液の循環は悪くなる。何もしないということが生体として機能が失われていくことが弱体化していくことが幸福であり望みであることなどあるのだろうか。ステージに立つ人間はどんなに苦しくとも飛ぶことが要求されるし、飛んでこそステージに立てる。だって劇場公演は息が切れて苦しいだけだから疲れるから、やらなくていいならやりたくないなんて言われた日にはどうしたらいいのかわからない。苦しさや辛さを強要したいわけじゃない、できるなら悲しみに濡れてほしくないし好きな人たちが倒れたり過呼吸になるくらい追い詰められたらするのは絶対にやだ。いつだって心おだやかで楽しく笑っていてほしい。でもアイドルを観て思うのは人の輝きの残酷な法則だよ。厳しい寒さの中で果実は甘くなり、草は踏みつけられた後に生い茂り、崖に咲く花は美しい。確かに秋元先生はミソジニーだし、AKBというか芸能界全体がミソジニーの蔓延した世界だけど、倫理とかその他諸々含めて適切な環境だとは言い難いこともわかっているけれど、それでもそこで思想を持ち重さに負けず甘言に惑わされず自分の信じた希望の明るさに向かって飛ぶ人は美しいし応援したくなる。ま、そういうことだよね。正規メンの美しい飛翔や慣れて卒なくこなしちゃう感じもいいけれど、やっぱ私は毎日毎日飛ぶ練習をして飛行技術が少しずつ上がったり反対にその累積の中である時急に飛べるようになったりとか感動と輝きが物凄い研公が好きなんだ。今は昇格した16期がどんな飛翔を見せてくれるかも楽しみだしね。とにかくチケセンの神様目撃者に入れさせてください〜

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じゃあ再见!

墓場探訪記

若さとは純潔を愛するものだ、と私は思う。心にもない綺麗事は言いたくない、間違ったことは見過ごせない、権力には屈しない、自分に正直でありたい。こどもじみた青臭い正義を掲げる。幻想なき理想主義とはよく言ったものだが、青年の理想とは幻想に他ならない。青年は、在りし日の理想を失った大人を軽蔑し憐れみ自分はああはならないと固く誓うが、その大人も昔は同じように誓いを立てたと気づいてしまう日が来るんだ。それはいかほどの絶望か。日野陽子はその絶望に身を蝕まれていた。絶望からの脱却、理想、そして自己実現のために彼女は自殺したのではないか。

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先日、10月16日Gロッソシアターにて舞台『墓場、女子高生』昼公演を観劇してきた。以下がその概要である。


『墓場、女子高生』は、「死者との決別」を題材にした作品。1年前に自ら命を絶ち、幽霊となった女子高生が、墓の近くで授業をさぼっている彼女の友人たちが行った怪しい儀式によって生き返ったことから展開される物語を描く。

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「いつでも思い出し笑いできるような出来事が、確かにいくつもあったんだけど…、」

 
学校の裏山にある墓場で、合唱部の少女達は今日も授業をサボって遊んでいる。墓場にはいろんな人間が現れる。オカルト部の部員達、ヒステリックな教師、疲れたサラリーマン、妖怪、幽霊…。墓場には似合わないバカ騒ぎをしながらも、少女達は胸にある思いを抱えていた。死んでしまった友達、日野陽子のこと。その思いが押さえきれなくなった時、少女達は「陽子のために…」、「いや、自分達のために」とある行動を起こす。

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万理華さんが座談会で話していたように、日野の自死の真の要因というのは定められているが、観客にはついぞ語られることがない。一人ひとりが日野の死の理由について考え、それぞれの結論・解釈を見出す。その過程が何よりも大切なのだと思う。みんな違ってみんないいじゃないけどさ、そこには正しさや望ましさ優劣はないんだ。レッドリバーバレーの和訳が様々であること、合唱部の面々が日野をそれぞれ違う呼び方で呼ぶことは、私達観客も日野ちゃんを、この舞台を、各々好きなように捉えてくれ、そういう意味合いも込められている気がする。何が言いたいのかというと、あなたが私の話を気に食わなくてもコイツはこう捉えたんだなって位に受け流してほしいというお願い。あとは、私も日野ちゃんを自分の呼び方で呼びたいから、日野君と呼ぶことにするというお知らせ。それでは前置きが長くなりましたが、どうぞ。

 

日野君は、合唱部のみんなにとってイデオローグ的存在であったのだと思う。軽薄そのものの女子高生達の姿。進むべき方向は日野が示してくれるし(死がまだ消化できないし)、将来に対する漠然とした不安なんて気にせず楽しめばいい、だってそれが青春なんだから!そんな風に言わんばかりの騒ぎよう…先日、映画『台風クラブ』を観てみたんだ。死は生に先行するという日野君の台詞の引用元だったから、自死の糸口を掴めるんじゃないかって。あの年頃の少年少女というのは軽薄でふしだらで不道徳で短絡的で暴力嗜好が強く規範から外れようとするとんでもない存在なんだよ。だけど、青春の名の下、大人も子供もその異常性を正当化する。狂ってる、みんな狂ってるんだ。その狂気が今回の舞台にも充満していた。私は最後まで観ていられるか不安になった。嫌な感じだ、気持ちが悪い、駄目なんだ苦手なんだこういうの、背筋がぞっとする、耐えられない、耐え難い。これこそ腐臭ではないか。

そう、それで、話を戻そう。カリスマにより未分化されていた合唱部は、指針を失いバラバラになってしまったわけだ。今までずるずると逃げてきた自分自身に向き合わなければいけなくなる。

 

《西川》井上小百合

ニッシーが合唱部を離れたのは、6人でいることがヒノチの不在を実感させるから、それは受け入れ難いことだから、自分の無力さと責任を知るから。だからオカルト部へと転部し、生き返らせたいという想いと武田部長という新たな指針に盲目的に従うことでどうにか心の平衡を保っているように感じた。だって理系の人だぜ、オカルトなんて非科学的であると鼻で笑いそうなのに。部長より知識が豊富である(例えば悪魔は仏教用語であると説明していた)ことを鑑みると日野君を生き返らせる事を目的としてオカルト部に入った事は明白であろう。武田とは、生き返らせるため・他に一緒にいる人がいないから行動を共にする。完全に利害関係にあるのだ。そして、仲間であった合唱部の面々はオカルトなんてものに傾倒する、謂わばおかしくなってしまったニッシーを腫れものでも触るかのように扱うのだ。日野の親友(と自負していた)西川が、種類は違えど日野のように孤立を深めていったのは何の皮肉か。

 

《メンコ》能條愛未

ドランカーのメンコちゃん。いい音を立てて缶ビールを開けるとぐびぐびぐび。いい飲みっぷりです。あれ、様子が変です。なんだか具合が悪そう。ああっ吐いてしまいました。んんんん、なんてことでしょう、バケツの中の吐瀉物をみんなに見せたくて追いかけ回し始めました…とおふざけは大概にして、メンコには、汚い醜いと称されるものを直視する強さがある。そしてなぜ汚い醜いと定義されているのか疑問にもつ賢さもある。どうして赤子の吐瀉物は触れられるのに、私だと駄目なの?よごれてしまっているから?歳を重ねるとは、大人になるとは、不浄な存在になるということ。腐っていくこと。日野君が受け入れられないかったことをメンコは甘んじて受け入れる。いや、来る日に向けて腐臭に鼻を慣れさせているのか。少女なら頬を赤らめ恥じらい目を逸らしなさいと言われたにも関わらず、私も女じゃけえと真っ直ぐ見つめた時、この人は何でもかんでも真っ向から立ち向かいすぎだと思った。腐っていくことに関しても日野の死に関しても。メンコは最後まで日野を生き返らせることを渋っていた。日野の望むこと、日野がどうして自殺したのかがぼんやりとでもわかっていたから。メンコが日野君を馬鹿にしていたのは単に服がダサいからというわけじゃないよね、日野の理想にしがみつくその姿を小馬鹿にしていたのかもしれない。そんなんじゃ大人になれないよ。そんなんじゃ生きていけないよって。そんな風に思っていた日野が自殺してしまったものだから、、メンコはたぶんエリート気質なんだな。もし日野君と孤独を分かち合える人が居たのなら、それはメンコのような気がする。

 

《チョロ》樋口日奈

失うことへの恐怖。それが日野の死がチョロにもたらしたものだった。大切な人が突然目の前からいなくなる、ずっと続くと思っていたものが突然終わりを告げる。ナカジがダメ元で恋人のタッペイに告白することを頑なに嫌がるのはそういうことなんだろう。人の心は移り変わってゆくもので、永遠などない。終わりの予感に敏感になっているチョロは、生き返った日野君が再び姿を消してしまうと感覚的に気づく。寝たら駄目だよ、またピノがどっかいっちゃうよ。アイドルの卒業を経験したファンのように見えなくもない。いやだいやだずっとここにいて、あなたにいてほしいんだ。卒業しないでくれ。とても素直で感情的な子だ。チョロの乱暴な口調というのは、それでも離れていかない人だけが周りにいてほしいから、虚勢の表れなのだろうか。

 

《ジモ》鈴木絢音

ジモちゃんは、からっぽというか背景がないというか何だかわけのわからない子だなという印象だった。そうしたら、絢音ちゃんが座談会で"もしかしたら心の成長が、みんなよりちょっと遅れている子なのかなあ、と思っていて。だから単にお調子者ということではなく、自分の気持ちがわからなくて揺れているところもある"と語っていて合点がいった。死んだ犬の名前をあだ名として同級生につける。まだ死という概念がないわけではないけど、幼い子どものように理解ができていないみたいだ。そんなジモちゃんがエピローグでね、、はあ、絢音ちゃんがこのまにまに揺れ動く未発達な人格を演じ上げる姿には脱帽だよ。すごいよ絢音ちゃん。流石 Take a risk なアイドルあーちゃんだぜ。

 

《ナカジ》斉藤優里

隣の席だった高校の生徒会長もこのあだ名だった。中島だからナカジ。おい、こっちはポエマーだよねと言われたの根に持ってるんだからな中島。まあ、それでナカジはキャピキャピしてるよね。テンション高くて声が大きくて表情がコロコロ変わってスカートの下にジャージを履いてて。いるよ、いる。こういう女子高生いる。絶対的女子高生感。一年前まで高校生だった私が言うんだから間違いない(間違っている)。ナカジは友人チョロの恋人タッペイに告白しようとする。振られるのはわかってるよ、それでも告白するの。なんでも白黒つけたい、ハッキリさせたい人みたいだね。なのに日野の死だけはもやもやもやもや自分の中で燻っている。自分の事ブスブスいうのも可愛いね、本当はそこまでブスだと思ってないよ!とか。ジモちゃんと昇竜拳の応酬してたところが好きだな。

《ビンゼ》新内眞衣

ヘッドホンをして一人すました顔でいるビンゼ。一緒に遊ぼうよ、合唱部に入ってよ。本当はひとりが寂しいくせに友達がほしいくせに臆病だから強がっちゃって誘いを断る。何聴いてたのと言われ答えなかったのに、興味ない人と1秒も一緒にいられない私たち〜♪いい歌詞だよね私も好き、なんて日野君が言ったらすぐに懐いちゃってさ。人との関わりを遮断するヘッドホンで聴いていたのが『デリケートに恋して』だったのが、いつかこの状況から救い出してくれる人がいると信じている乙女チックな理由とひとりでいるのは私がそうしていたいからという強がりによるものなのが本当に可愛い。日野君もそんな年頃の少女らしい臆病さと世界に期待を持っているビンゼを可愛いらしいと思っていたんだ。そしてビンゼは、新しい世界を見せてくれた日野君に敬愛の念を抱く。なのに、自殺するなんて。自分だけみんなより日野ちゃんといた時間が少ない、自分は彼女に救われたのに救う事ができなかった。後悔の念がビンゼを襲う。みんな違うでしょ!私もそう!日野ちゃんの為じゃない、自分の為なんだよ。私は私の為に日野ちゃんを生き返らせると啖呵を切り、はたから見れば馬鹿馬鹿しい蘇生の儀式に参加するのだ。ビンゼもまた正しさを愛し偽らざる人だったのである。

 

《武田》伊藤純奈

オカルト部の部長、武田様。現状に不満を持つがゆえにオカルトに縋る所謂ぼっちの人。自分に意地悪してくる男子に、鼻の穴が一つになりますように、鼻水が滝のように出続けますようになんて呪いをかけている。この子も寂しがり屋だ。そんな彼女が勇気を振り絞って私も日野さんと仲良くなりたいヒノペチーノって呼ぶねなんて泣きそう。いくつもの卒塔婆を背負って孔雀みたいに登場しきたりとかなりのイロモノキャラだけど純奈は演じきってくれていた。普段から人を笑わせる努力をしている彼女だからこそこんなにぴったりハマっていたのかなと。

 

《日野》伊藤万理華

日野ちゃんのあの歪んだ天真爛漫さが私は好きだ。彼女は永遠に穢れを知らぬ少女でいたかったのだと思う。けれど、学生は一人前の大人になることを社会から要請されている。少女でいられる時間も終わりが近づいていた。世界は腐っていると話した西川に、そうだともと言い切った日野。だが、「私の目が腐っているから、世界が腐って見えるんじゃないかって心配だったの」という西川の台詞。もしも子どもの目が美しい目であるのなら世界は美しく見える筈だ。だが、日野ら女子高生の目に映るのは、世界のありのままの姿。美しく見えるフィルターはどこかになくし、世界の真実を映すその目も次第に腐敗してゆくのだ。

 

やさしさに包まれたなら きっと 

目にうつる全てのことは "不快な" メッセージ

 

不快なメッセージを受け取るのは、大人に近づいている証拠だ。西川はメッセージを受け取りはしたが、その内容を読み解けてはいない。一方日野は、随分前から受け取っているそのメッセージを熟読している。同時にそれは腐敗の始まりと進行を意味する。自らの目が腐っているのではないかと案じていた西川に「お前は美しいよ、ニッシー」と言った日野。あまりにその声音は慈愛に満ちていた。そしてあまりに悲哀を含んでいた。悩ましい少女の姿、その悩ましさの正体に気づいてしまっている己の身。「お前は美しいよ、ヒノ」と一番言われたい彼女なのに、そう言ってくれる人はどこにもいないのだ。もう日野は決めていた、美しいままに死ぬと。来る日に向けて着々と準備を進める。誰にも気づかれぬよう、しかし足跡を残しながら。『Red River Valley』の和訳を西川に頼んだのもその一つであった。英語が得意なんだから自分でやればいいのにと言われた時の苦し紛れの言い訳。日野は自身に一番近い距離にいる西川に最後を飾る手向けとして、そして歌う事で思い出して欲しかったのかもしれない。記憶の中で永遠に美しい存在として。死への予兆はビンゼとの出会いの場面にも見られた。合唱部へ勧誘する際に歌った『誰も知らない私の悩み』選曲は主に日野が担当しているようであるし、誰も知らない私の悩みというのは、腐敗構造に身を置かざる我が身を嘆きこのまま腐り社会のリソースと化すか、尊い筈の命を自らの断つ事で美しく存在証明を追求すべきかという苦悩。加え、「興味ない人と1秒も一緒にいられない私たち」の歌詞が好きだという発言。腐臭を放つ世界には1秒だっていられない。あるいは、真理の追求もせずモラトリアムを消費していくだけならばあなた達を残して私は行くという合唱部員への言伝。

更には、観客に死を色濃く印象付けたあのシーン。腐った大人になりたいんですどうやったらなれますかと日野に泣きついた冴えない会社員高田。その肩を両の手で掴み、日野は何かに取り憑かれたような口調で厳かに語り始める。「死は生に先行するんだ。死は生の前提なんだ。僕たちには、厳粛に生きるための厳粛な死が与えられていない」引用元の映画『台風クラブ』ではこのセリフにはまだ続きがある。「だから俺が死んでみせる。みんなが生きるために」三上君と日野ちゃんの自死の原因が同じであるとは思わない。しかし二人には類似点が多いのだ。そして劇中三上君はこんな問いを投げかける。

「個は種を超越できるのだろうか?種は種の個に対する勝利だって聞いたけど」

彼の兄はこう答える。

「多分それは、鶏と卵だな。個というのが鶏で、種は卵だろ。個としての鶏が種としての卵を超えるというのは、鶏が、鶏の経験が次に産んだ卵を新しく作り変える時であろうから」


そして日野は、桜の木で首を吊った。彼女が、彼女の死が、周囲に気付かれたのは、死体のひどい腐臭によってだった。銀杏の木でなくて良かった臭かったら私気づかれなかったもんと墓場で話した彼女の明るい口調が絶望をまざまざと表していた。厳粛に生きるための厳粛な死を残された者へと与えた筈であったのに、結果的に彼女自身が"不快なメッセージ"となってしまったのだ。この事実に気づき、私は泣くしかなかった。ああ、なんてことだ。なんてことだ…これを悲劇と呼ばず何と呼ぼうか。しかし、死することによって彼女は永遠の少女になった。最後の姿は、決して美しいとは言えなかったかもしれないが、残された者の生に影響を与え、自身は記憶の中美しい存在として永遠になる。だが、幽霊としてこの世に留まる彼女は本当に厳粛な死を獲得したと言えるのだろうか。そこなんだよ。プレポルさんが述べていたように"幽霊になった日野が冒頭から出演し、観客に見えている、という状態は、彼女の死のインパクを弱めてしまっていた"のだ。しかし、この状態というのは1度目の自死は厳粛な死でなかったと観客に提示する演出だとは考えられないだろうか。腐敗した世界のエアーポケットの中で日野は透明な存在として"生かされて"しまっているのだ。不可抗力とはいえ、幽霊としてこの世に留まり存在することを受容する姿に詰めの甘さを感じた。でも、きっと、そう、日野ちゃんは、お山の大将でしかなかった。たぶん本来の彼女というのは観客の私たちが思うような高尚な人間ではないのだろう。本人が演じていたのか、それとも周囲の役割期待によるものなのか。前者…であろうか。西川と二人で話している時、日野がいつものように知恵を授けるが如く歌い出したじゃない。そこで西川が言い放った「私、知ってるよ。ヒノチの言葉ってたまに何の歌でもないよね」一瞬で凍りついた日野。取り繕っていた虚像を見破られた。もっともらしく威厳を保つために歌からの引用として語っているのか、それとも本心を無防備に曝け出すことに躊躇があり引用として語るのか。それは何とも言えない。そう、それで、私たちは日野ちゃんをカリスマだとかエリートだとか他と一線を画す存在に見がちだが、納見が言っていたように彼女も所詮社会を知らぬ小娘なのだ。規範に擦り寄れなかったんだ。大人になることから逃げたんだ。私は彼女を貶めようとしているのではない。だって私自身も彼女を高尚な存在として崇めているからだ。しかし、確かにそのような面はあるんだよ。日野ちゃんが印象管理しているのは事実だ。そして、幽霊となった日野にはもうその必要もなく、妖怪と幽霊と戯れの日々を過ごす。厳粛さはどこにもない。女子高生と同じ、ただただ軽薄な姿。

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そして日野は蘇生の儀式により生き返る。「なんで…なんで勝手に生き返らせたりなんかするの!」短き永遠はピリオドを打たれてしまった。憤慨された合唱部の面々は頭を垂れ謝罪する。じゃあ帰っていいよ、と言う。おい、そんなあっさりとなんて突っ込みたくなったけど、彼女たちは構わずに墓に日野を押し込んでいる。が、失敗。また死ななきゃね、とか言い出す。「死ぬって大変なんだよ!苦しいことなんだよ!」再び憤慨。合唱部の面々は、日野の不在に葛藤するが厳密にいえばそれは彼女の死についてではない。彼女らは日野を失った自己に対して葛藤しているのだ。即ち、自己に対する内発的な葛藤。ビンゼはこれに自覚的であった。しかし、これを公言することを偽らざる正しさとして認識してしまい、先の命題にたどり着かなかった。割り切れない思いがあり、言葉や所作といった表層に浮上するもので判断できないと理解しているつもりでも、どうしても彼女たちの発言は軽骨であるように感じるのだ。まあ、実際無分別ではあるのだけど。

 どうして私たちに何も言わずに死んじゃったのという問いに対し、日野は、うんこするのにこれからうんこしてきまーすなんて言う?言わないでしょ。と吐き捨てる。これは「みんなは私の死んだ理由にはなれないよ」と併せて、死は極めて固有のものであり、他者の介在はあり得ないということを顕著に示している台詞であった。そして、日野の死は彼女の生理であり、そうであること(=死)以外ありえなかったのだ。私は、日野に強く共感してしまった。あまりに死生観が似通っていたからだ。いつか話したように死に憧憬を抱いていたからね。彼女の死んだ理由は私の死にたかった理由なのでは、とまで思ってしまっている。感覚的にわかるんだ。どうして死んだの?なんて無粋なことは訊かれたくない。最も私的で最も固有で最も美しい秘密をなぜ人に説明しなければいけないのだろう。本当のことを言うとねここまでのこんな文章は、こじつけに過ぎない。言葉をこねくり回しているだけなんだから。わかる、としか言えないんだから。盛大な勘違いかもしれない。私ってよく自分がこの世界でただ一人その人の良き理解者だって思い込んでしまうことがあるから。李徴然り、ホールデン・コールフィールド然り。ごめんなさいね、お見苦しいところを見せてしまって。さて、"世界を美しく定義したい"これが日野の望みである。醜き腐った世界というのはあり得ない。世界を醜い腐っていると認識する自己があるだけだ。世界とは認識であり、認識とは自意識である。言い換えれば、世界とは自意識なのだ。若さは、世界をどうとでもできるんだ。そして日野は合唱部の面々に自分の死んだ理由を美しく定義させる。純然たる事実として日野の死を自己に落とし込む作業。死者との決別はここで成されたのだ。日野は自己を意識する度合いが強かったために絶望の度合いも強く、自身を美しく定義できなかった。だが、皆に定義し直されたことで日野の存在とその死は厳粛なものへと昇華していった。山彦と真壁が述べていたように、存在の持続には、私が私であるという意識のほかに他者からの承認が必要なのだ。厳粛である日野が為すべきことは、状態としての死に立ち戻ること。そこでようやく厳粛な死を獲得するのである。だけど、彼女が次にどんな行動をとるのかなんてわかっていたはずなのに、悲しくて切なくてどうかいかないでって思ってしまったんだ。その先はかなりの衝撃を受けた。

 

桜の木からぶら下がる人の形をしたなにか。おおよそ生きている人間では見ることのないあのアンバランスなシルエット。日野だ。あれは日野だ。ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん。不安定に揺れる。死体が揺れている。皆叫ぶ。声にならない声で泣き叫ぶ。怖いときは歌を歌おう。涙でぐずぐずになりながら、歌うあの歌。

卒業式。合唱部は「レッドリバーバレー」を歌う。皆晴れやかで清々しい表情。ああ、彼女らは卒業できたのだな。日野からの卒業。

エピローグ:あんなに賑やかであった墓場も今はビンゼとジモのふたりしかいない。それぞれ日常への回帰やモラトリアムからの脱却を試み、厳粛な生を生きているのだろう。そして、ふたりは本名を明かしあう。あだ名という記号を与えられた集団の成員から一個人として根源的な自己に立ち返るのだ。さようならが言えなかったビンゼはさようならを言い、去る。失うことがわからなかったジモは失ったものに寄り添う。いつか忘れちゃうって話してたよね。でも、ビンゼのさようならのポーズ,ジモがのどを鳴らし飲むコーラは日野の面影を色濃く映していた。もし、思い返すことが出来なくとも忘れてしまっていても、日野は彼女たちに影響を及ぼし彼女たちの中で生き続けるのだ。永遠の少女、日野陽子。あなたは美しい。

 

 

私の解釈は以上だ。しかしね、日野の死は美しくありたいという極めて私的なものに収まらないもののような気もするんだ。腐った世界において腐臭を引き受け、つまり、イエスの如く原罪を背負って死に、イエスの如く生き返った。迷える子羊の導き手となるように。日野の魂は限りなくイデアに近いものだったのかもしれない。

我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる。

つまり、真の認識とは「想起」(アナムネーシス)にほかならない、と言うのである。そしてphilosophia(=愛知)とは「死の練習」なのであり、真の philosopher(愛知者)は、できるかぎりその魂を身体から分離開放し、魂が純粋に魂自体においてあるように努力する者だとした。この愛知者の魂の知の対象が「イデア」である。
イデアは、それぞれの存在が「何であるか」ということに比較して、「まさにそれであるところのそのもの」を意味する。

 ………日野が幽霊として墓場に住まう、とはまさに肉体を持たぬイデアであったということなのでは。やはり、もう一次元上の話であったか。当方のような浅学菲才では到底辿り着けぬ真理であるようなので有識者の方にお頼みしたい。日野陽子におけるイデア論を交えた墓場女子高生の考察・解釈をお願いします。いや、イデア論と容易に結び付ける事自体が浅慮であるのか。上記の文章もwikipediaからの引用だし。そうだとしても、個人的に興味関心があるので是非ともお願いしたい。

 

いやはや、要点をまとめ簡潔に述べられぬ人間であるとは自覚していたがここまで長い文章になるとは。もしここまで読まれた方がいましたら、大変お疲れ様です。こんな駄文にお付き合い頂いて、すじょいせん。ええ、すじょいせん使ってみたかっただけです。許してください………許されます。私は当初この舞台を観劇する予定はなかったのだが、ありがたいことにお誘いを受けて観劇の運びとなった。はるぼうさん等には感謝しかない。そして、御三方が「推しじゃないのにまりかにはどうしても目がいく、惹きつけられるんだよな」と話していたことが、自分の事のように嬉しかった。自慢げな顔をしていただろうな。そうだ、そうなんだよ、私の応援している万理華さんはいつでも輝いていて、いつでも可愛くて、いつでもかっこよくて、いつでも刺激を与え、いつでも人々を魅了し、いつでも私たちの想像なんて軽々と超えてきてくれる人なんだ。伊藤万理華を見よ!なんて言ってしまうくらいにはね。追いかけてもそこに伊藤万理華はいない、それでも彼女を追いかけていたいんだ。追いつかないとしても、その背中を見つめていたいんだ。それに追いかけた場所にいないのなら、いつかは先回りだってしてみたい。日野陽子を演じる万理華さんを観れた私は幸せ者だ。それでは、そろそろサヨナラのお時間です。最後は『Red River Valley』でお別れです。

 

谷間を去るあなたの

輝く瞳と笑みは

なにもかもを連れてゆく

わたしだけを残して

そばにおいで あなたよ

ひきとめたりはしない

ただもう一度レッドリバーバレー

最後に歩く小道

 

悲しいとか 寂しいとか

どれだけ傷ついたとか

今はまだわからない

今はまだその途中

谷間を去りあなたは

次の暮らしを見つけ

思い出のレッドリバーバレー

わたしだけを残して

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