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好きなら好きなだけ遠いよ

ぶつくさと独り言

舞台「ロミオ&ジュリエット」謎感想文

 

「天使のような微笑みを浮かべながら俺たちを騙していたんだな!!」受け入れ難いことが起こると人はすぐ騙されただとか裏切られたと憤慨し出す。その姿に疑問を抱くことがしばしばある。そして幼き頃の私のバイブル『十二国記』の中にこんな台詞があった。

"裏切られたっていいんだ。裏切られたって、裏切った奴が卑怯になるだけだ。私は死なない。卑怯者にもならない。善意でなければ信じられないか。相手が優しくしてくれなければ優しくしてはいけないのか。そうではないだろう。私が相手を信じることと相手が私を裏切ることとは何の関係もなかったんだ。そうだ、私は独りだ。だから私のことは私が決める。私は誰も優しくしてくれなくても、どんなに裏切られたって、誰も信じない卑怯者にはならない。世界も他人も関係ない。私は優しくしたいからするんだ。信じたいから信じるんだ!!"

幼い心に陽子のこの言葉は深く刻まれた。私だって裏切られたら悲しく思う。でもそれは裏切られた我が身を嘆いてではなく、裏切った彼の人が卑しくなってしまうことが悲しいんだ。それに裏切られたという思考に至ることがあまりない。前々からおかしいと思っていたんだ。自分によくしてくれる人でないと好感を持てず無条件にあの人はいい人だと言ったり、自分を嫌っている人をあいつは悪いやつだと貶したり。相手が自分にどうしてくれるか、行為で全部決めてる。そんなの当たり前のことだろうと言われればそうだけれど、何かおかしくないか?打算的じゃないか?舞台から少々飛躍してしまったけれどベンヴォーリオの言葉にそんな事を思ってしまった。それにロミオは仲間を裏切った訳ではなかった。自らの心と直感と運命に従った。だけれどもモンタギューの若者は憤る。彼らは子どものように純粋なロミオを愛し認め尊んでいるけれど、彼が自分達とはどこか違う存在であることを悟っている。それがモンタギューの次期当主ということに起因しないことも。ロミオは仲間を大切に思い彼らのことが好きだけれど、何にも縛られず一人でいる時間も好む。一方で、"みんなで"ということにこだわる側面もある。「お前は世界の王になる」「いや俺たちがだろ」彼が遠い存在になってしまうことを予期しながら足並みを揃えてただ日々を楽しむことでいつか来る日を忘れようとしていたように感じた。尽きない憎しみ合いに、まるで意味のない対立に疑念を抱きながらも逃れたいと望みながらもその構造から若者達は抜け出せない。彼らは憎しみの種を植え付けられたことに怒りと悲しみを覚えている。それなのに憎しみを抑えられず戦うことをやめられない自らに絶望している。そこにあのロミオが密かにキャピュレット家の娘と結婚したと聞いて詰め寄ったのだろうな。やはり俺たちを置いて行ってしまうのかという寂しさとただ一人この呪縛から逃れるというのかという怨めしい心。本当になぜ両家はこんなにも憎しみ合っているのか。

 

女たちは憎しみを憎んでいる。その蛇のように蠢めく黒い憎しみの炎を。一族に生まれた子供が最初に覚える言葉は憎しみだと。また蛇だ。私たちはいつから腹の中に蛇を住まわせるのか。夫人らが憎しみを強く非難するのは彼女達は一族の人間ではあるが、一族の血を引かないからだ。端から見ればこの憎しみの連鎖は狂っているとしか言いようがない。争いを禁じるも抗争は留まるところを知らず、ヴェローナ大公の「私は狂人達を治める大公か!それとも野蛮人達の番人か!」という台詞が印象的だった。法でも彼らを駆り立てる憎しみを止められない。心の底では否定し不満を感じているのに血に抗えず悪しき因襲に従うことしかできない人々。その血には毒が流れていると大公は嘆する。なぜかその言葉に私の背筋が冷たくなるのを感じた。私の血にも毒が流れている。ニーチェの言葉を拝借させてもらう。

"おまえ自身の血管のなかに、腐って泡を立てている沼の血が流れているのではないか。だからおまえは醜くカエルの鳴き声をあげ、誹謗ばかりしているのだ。"

モンタギュー,キャピュレット両家の確執とその憎しみが未だ理解できずにいるけれど、憎しみに突き動かされ盲目的に争う彼らを愚かしいと思う私も彼らと大した違いはなく等しく愚かで醜い存在なのだと、乃木坂への想いももう汚れてしまったと観劇しながら頭の片隅でそんなことを考えていた。

 

この舞台の中で一番好きな登場人物はティボルトだ。ああティボルト哀しき男。幼い頃はドラゴンを倒し囚われのお姫様を救うことを夢見ていたというのに、今のこの男は植えつけられた憎しみに心を支配され自分ではもうどうにもできなくなっている。それでも葛藤して本当の俺はこんなんじゃないんだと言う。大人に仕向けられたんだ。復讐の手先にされたんだ。子供の頃にはもう帰れない、と。そんな中で心のオアシスがいとこであり想い人のジュリエットだった。ここまでの感じだとこの男は一族の無益な争いの可哀想な犠牲者のように思えるけれど、定かではないといえこいつは想い人の母親つまり実の伯母と関係を持っているんだ。他にも数々の女達と寝てきている。叶わない恋路に想いを募らせるあまり次第に鬱屈とした恋情となってしまっている。そうだねあんたは子供には戻れない。それでもジュリエットの前では全てを隠し勇敢で頼もしい従兄弟でいる。柔らかな慈しむような視線でジュリエットを見つめている。パリス伯爵を退けたと思ったら、そんな彼女がぽっと出の男と、事もあろうかモンタギュー家の跡取りロミオと結婚したというのだから猛り狂うのも当然だろう。ただ、彼は葛藤していた胸の奥の良心もマキューシオと一緒に刺してしまった。ハハハハと声高に笑うティボルト。彼にはもう救いは訪れない。鷹揚なロミオも恐れていたことが現実になり親しき友を失い、その心は憎しみと怒りに支配されてしまった。その結果ティボルトはナイフで刺されて死んでしまう。勇敢と讃えらたキャピュレットの男の最期はあまりに呆気なくあまりに滑稽だった。ティボルトはどこまでも不憫で哀しくそれでいて色気のある男だった。私はこういう男に弱いのだ。

 

ベンヴォーリオが天使の微笑みと言っていたように、ロミオは天使としか形容のしようがない人物だった。過去にとある番組で大野拓朗さんの情けない姿を目撃していた私は「ケッ大野拓朗か、こいつがロミオで生田さんと…」とゴゴゴゴゴゴと背後に効果音が見えるくらいに憤っていた。というより不満タラタラだった。だからようやく取れた公演日のロミオ役が彼だった時は自分がヒステリックにならないかおそれていたけれどそんなものは無用の心配だった。大野ロミオは天使です。軟弱と切り捨ててしまえばそれまでかもしれないけれど、それ以上の何かが確かにあった。モンタギューの若者達の中でも彼だけはまごうことなき気品を纏っていたし、なによりピュアすぎる。天使。天使なんだよ。天使。なんだかもう中盤にはあのウェーブのかかった髪型まで可愛らしく見えてきて、ああ可愛いなってずっと思ってた。そんなロミオが顔を歪め慄きながら歌う『僕は怖い』は無邪気な彼が笑顔の奥に隠している憂懼がひしひしと伝わってきて圧巻だった。 "僕は怖い 隠さず言おう死ぬのが怖い 僕らの背中にそっと忍び寄る影 僕は怖い 僕は怖い 明日突然友達が消えて 世界が闇に閉ざされたら" 死の臭いに敏感な彼が死に対して底知れぬ恐怖を感じていることがこれでもかと伝わってくる。古川さんのロミオやそれ以前のロミオを拝見していないから断言はできないけれど、大野さんのこの演技は誰よりも上手いと思うなあ。お前誰だよって感じだね。でも本当にすごかったなあ。ロミオは全体的に夢見る乙女のようで、もうなんだか見守っていたいという感情しかなかった。まだ見ぬ恋人を待っているとか、僕はロミオじゃない恋人って呼んでとかさ、もうね可愛いんだ。だからこそ彼が友を失った憎しみと怒りでティボルトを刺し殺したことがにわかに信じがたかった。彼だけが他とは違って天使のような聖人君子だとそう思い込んでいたから、青年によくある逆上して間違いを犯すなんてことが起こるなんて。ロミオの友に対する執着ともいえるほどの強い想い。一瞬だけれど燃え上がった黒い炎になんだか怖くなってしまった。あの天使のようなロミオでさえもこうなってしまうのかと。

 

様々な場面ですぐに涙ぐんでしまったけれど、キャピュレット卿の娘への愛にぽろぽろと泣いてしまった。自分の娘でないと気づき殺してやろうと細い首に手をかけた時、幼いジュリエットは無邪気に微笑んだ。血は繋がっていなくとも愛している。という話に号泣していた。享楽に明け暮れる強欲な当主かと思いきや、その慈しみの心があるのならばキャピュレット卿あなたはなんだってやり直せるさ正せるさ。パリス伯との結婚を推し進めようとするのも家の為というより娘には苦労してほしくないからなんだろうな。たとえ愛のためにでも茨の道は進んでほしくないのだな。娘を想うのならロミオとの結婚を認めてあげてよ。もうね若きロミオとジュリエットを慈しみ尊んでいる周囲の人々の愛情に涙してしまうのだ。乳母の愛も神父の祈りも然り。けれども、その全てが最後には嘆きに変わってしまうのだ。

 

登場した瞬間に舞台の上が一気に華やいだようになってああこんな人が本当にいるのか、例えなんかじゃなくて本当に眩い光を放っていてキラキラしている。化粧をしているとはいえ透き通るような白い肌に、その顔つきは純真無垢で快活な少女のものであるし、はにかんだような笑みを浮かべて皆の視線を集めている。ジュリエット。生田絵梨花さん。舞台を観に来ているのだから役柄で拝見せねば失礼だという念はあれども、みんな見ているか!我らの生田絵梨花さんだぞ!と言い触らしたくなるくらいなんだか誇らしく嬉しくなった。まだ姿を現しただけだというのに。生田絵梨花はそこにはおらずジュリエットがいた、なんて私は言わない。ジュリエットを見ていたし、生田さんを見ていた。完全に乖離させるのは当たり前に無理だった。一番に頬がほころんでしまったのはウェディングドレスの鏡合わせのシーンだった。胸にドレスを当てて体を右にしたり左にしたりとても楽しそうにするから、肩にかけた上着の袖がブンブンと揺れて、子供のような仕草が何よりも愛らしかった。微笑ましかった。年相応の無邪気さを見せるこの子が間も無く命を絶ってしまうのかと、結末を知る私はいや私だけでなく多くの観客たちがこの時既に心を痛めていたに違いない。彼女が楽しそうにしていればしているほど、最期の瞬間の訪れを予感してしまうし、序盤から生田さんのジュリエットが視界に映るたびに悲しくなってしまった。やめてくれ、やめてくれ、どうかこの若き二人の幸せを奪わないでくれと。二人の愛はとても深いものであるだろうに、それでもどこか小鳥が戯れ合っているような可愛らしさと微笑ましさ、軽忽さや不毛さを感じずにはいられないのは私がもう純粋ではなくなってしまったからなのか。母であるより女であるキャピュレット夫人とは対照的に、我が子のように深い愛を注ぎ幸せを願った乳母に感情移入してしまうしまうのが人間か。でもその乳母も一度パリス伯と結婚した方がよいのかもしれないとジュリエットに申し入れているんだよな。愛に生きてほしいと思う一方で修羅の道にはどうしたって踏み入れてほしくはないだろうにやはり愛するジュリエットのために使いに走るのだ。シルビアさんの歌は圧巻で聴いていて小気味よく体に響くようだった。この歌声を聴いてしまうとなんだか生田さんがか細く思えてきてしまうな。舞台にほとんど足を運んだことがないからどの方が歌ってもすごいすごいと感動してしまっていた。私は良し悪しがわからないためになんでも楽しめるのだと思う。それが良いのか悪いのかもわからないけれど。『エメ』はMUSIC FAIR で歌っていたのを聴いていたからあの曲だとスーッと耳にも心にも入ってきた。舞台が終わり実家へ帰る車の中でエーメー 君だけを〜 エーメー 愛している〜♪とずっと歌っていたのは秘密。あと思っていたのだけれど、"その名はロミオ どうしてロミオなの"と歌う場面があったでしょう。希望に満ち溢れすぎていて家に対する恨めしさや不遇の状況、困難な愛というのがあまり感じられなかったんだよな。私の中では、というか中学生の頃に読んだっきりのシェイクスピアロミオとジュリエット、いやただのイメージだな、それが「おおロミオ、あなたはどうしてロミオなの」というものだったから違和感がかなりあった。浮ついているなと。なのに一歩ふたりが手を繋ぎ愛のもとへ歩いていこうとすると、とてつもない重さを背負う。運命が彼らの足に絡みついていく。どうしてこんなことになってしまうのだろうと悲しめども彼らの行き着く場所はここ以外なかったような気もする。彼らを取り巻く死はあまりにも耽美であった。それでいて言いようの無い不気味さを覚える。心臓を逆撫でされているようなとても嫌な感じだ。本能的に近づくべきではないとわかる。その足取りは重いようで軽やかで、今見えている舞台の景色にまた別の次元の世界が重なっていてそこを歩いているような不可思議な感覚に囚われる。精霊の守り人でいうところのナユグだ。ただあれは「死」なのか。嘗め回すようにこちらを窺い、不穏な空気と共に静かに足音も立てず近づいてくる。身の毛もよだつあの佇まい。一切を超越したような厳粛で免れることのできない定め。あれは「宿命」だったのかもしれない。ロミオが服毒しジュリエットが己を短剣で刺し絶命したあの瞬間「宿命」は十字架にキリストと同じく磔になり血のような真紅に照らされた。そして暗転。宿命が果たされたのだ。ふたりは生まれるより前にこうなる運命だった。両家が憎しみを捨て去りその血に流れる毒を清めるための礎だったのだ。天使のようなロミオと天使のようなジュリエット。ふたりは神からの使いであったと信じたい。ロレンス神父の祈りは届いていたのだ。

 

ああそれで、今回は母とふたりで観劇したんだ。チケット代は出すから何か観たい舞台があるのなら一緒に行こうと誘われていて、ちゃっかりロミジュリにしたんだ。母は私がアイドルを乃木坂を好きだということにあまり肯定的でなくて理解を得られていなかったからちょっとでも好転しないかと少しばかりの期待を込めて。そうしたらママンったら観終わった後は語彙力を失ったように「生田絵梨花ちゃん華があるよね、輝いている。そこにいるだけでオーラがあって流石芸能人って感じ。そして可愛いわ」しか言わないものだから成功したのだろうか。ただ、乃木坂の彼女たちの虜になった人間というのは歳も性別も関係なく皆こんな風になるのかと少し怖くなった。ああ、でも言わせてほしい。生田絵梨花さんは可愛い!私は彼女にルサンチマンを抱いておりあまり好きでなかったしあまり見ていたくもなかったし苦い感情しか持ち合わせていなかった。それなのに舞台上の彼女の途方もない陽のオーラにそんなこと完全に忘れていた。ただただ魅入っていた。バルコニーにかける細腕が目に入った。そこからツーっと視線を下げて手の甲、掌を見る。きれいな指だと思った。自分がこの美しい手に触れることができるのだとはにわかに信じ難かった。観客席から遠く遠く手の届かない舞台に立ち輝きを放つこの人の手を取り言葉を交わせるなんて夢以外じゃありえない。それが現実に起こり得りさらには微笑みかけてくれるというのだからアイドルでいてくれることは奇跡であるし、貴い存在であるし、大袈裟でなくこの時代この世界に生まれたことに感謝したくなる。…と言いつつもまだ生田さんの握手には行ったことがない。多分これからもないのだろう。彼女の眼前に晒されることを考えると自分がひどく惨めに思えてきて羞恥を覚える。何もそれは彼女に限ったことではない。アイドルとの握手は全てそうだ。この美しき人の視界に自分は入ってはいけない入ることは許されないと思うし、この卑しき両の目で見つめてはいけないと思う。それなのに恥知らずの私はこれまで何度か足を運んでいるのだから笑える話だ。

 

大野拓朗さんに対しての確執はきれいさっぱりなくなったけれど最後にひとつ言わせてくれ。生田さんに優しく髪を撫でてもらえるなんて羨ましいんだよ、ロミオ君。ジェラシーだよ、ロミオ君。あと関係ないけどマーキューシオのこと最初大嫌いだったのに死ぬ直前のあのしおらしい様子見てしまってからめちゃ好きになってしまったんだけど。あの場面で殺されてしまったマーキューシオとティボルトが大好きすぎるんだけど。ふたりとも可愛すぎるんだけど。というよりこの公演に出ていた人みんな好きになってしまったんだけれど。舞台っていいものだね。乃木坂とか関係なく観劇はしていきたいななんて思った。チャオ。

2月11日(土) 17:30〜
ロミオ:大野拓朗
ジュリエット:生田絵梨花
ベンヴォーリオ:馬場徹
マーキューシオ:平間壮一
ティボルト:渡辺大
死:宮尾俊太郎

愛はPARCO

-渋谷パルコ8Fシネクイント-

bershkaの脇の小さな路地に入りスペイン坂を登っていく。ああ見えたシンゴジラの看板だ。なんだか渋谷パルコが崖の上にそびえ立つ城のように見えてくるこの道が好きだ。そんなことを思いながらpart3の中に入りエスカレーターで8Fを目指す。閉所恐怖症ってわけじゃないんだけどエレベーターはどうも苦手でね。あれ、このフロア、エスカレーターがないぞ、階段で行くしかない。確か5Fか6Fだった。仕方なく登っていこうとしたら階段の壁に絵を描いている人がいる抽象画のようだけどなんだろう、仕事でパルコにペイントなんてものすごくカッコいいな、声かけてみようかな、なんてぐるぐる考えて上がる筈の階段を下っていきその人の脇を通った。案の定話しかけられなかった。そしたら後日その人は竹谷嘉人さんだと判明した。フォローしてたイラストレーターさんだったから興奮しちゃったな。それで階段で上って行ったのはいいんだけどエレベーターじゃないと8Fに行けなかったみたいで結局乗ったんだ。そうだそうだ何の映画を観ようとしていたのかまだ言っていなかった。『シングストリート』を観るためだったんだ。周囲の人がこぞって絶賛していたから気になってはいたんだけど、映画館へ足を運んだ決め手は万理華さんから送られてきた 件名:シングストリート のメールだった。初めて来るシアターでおろおろしながらカウンターにいるお姉さんに「シングストリート大学生で1枚ください」と言う。よかった声が震えなかった。私は普段食べ物を注文したり、店員さんに何か聞くのだって本当に喉の奥から声を絞り出して話しているんだ。外食した時はお店の人にごちそうさまでしたと言うようにしているけど、声が小さすぎて気づかれないことがよくある。高校時代剣道部だったし大きな声は出そうとすれば出るけれど、その音量を人との会話で出せたことがない。こういうところが対人困難性とか言われちゃうんだろうな。はあ。そして13:00になり映画が始まる。

 

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主人公のコナーもやっぱりどうしようもなさの中で生きているんだよね。父と母の仲は冷え込んでいるのにカトリックだから離婚が難しいし、そのフラストレーションは内に家庭の中に向けられる。そんな二人の口喧嘩に耳をふさぐように自分の部屋でギターを弾く。経済的理由から公立の男子校に転校することになるけれどそこの野郎共が荒れに荒れてるんだよ。暴力が蔓延っている。しかもそのシーンのBGMが「Stay Clean」育ちの良さそうなコナーは案の定ボコボコにされちゃう。でも学校の向かいの建物にいた美人に惚れて、気を引こうと勢いでバンドを組んじゃうんだ。ウンザリする現実を振り切るように仲間と本気で音楽に打ち込んで、モデルの彼女にMV出演してもらって。毎日が輝き始める。それなのにまた現実がのしかかってくる。そんな中で歌った「Drive It Like You Store It」

 

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Sing Streetで一番好きな曲だ。これは君の人生だ、何にだってなれる。どこにだっていける。私たちはまだ若いんだから悲観的にならず信じて突き進むべきなのかもしれない。そこで生まれた熱量が変化をもたらすのだから。何者かになれなくたって、この後の人生この美しい過去の為だけに生きていられるじゃないか。『シングストリート』この映画は私の思う青春、恋愛そのものだった。「彼女を見てると僕は泣きたくなる」コナーは言った。ああわかるよ、わかる。好きで好きでどうしようもないんだ。ラストシーン、二人は大荒れの海原に飛び出す。海の向こうのロンドンを目指して。

 

 

-渋谷パルコ前-

8月7日。渋谷パルコ最後の日。シネクイント最終上映『バッファロー'66』のチケットを取った。18:00からの開始だが今はまだ昼だ。公園通りを練り歩くパレードに大好きなライカさんとレイチェルさんが参加するときいて、一目見ようと思ったんだ。いやしかしすごい人の数だ。報道陣もいっぱいいる。そこかしこにカメラがある。

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まだかなまだかななんて待っていたらようやくきた!縷縷夢兎に身を包んだミスiD。その距離1m。彼女達が現れるとシャッター音とフラッシュが一気に降り注がれる。画面の中の人が目の前にいる。私は興奮してめちゃくちゃに写真を撮っていた。前にもこの話はしたけれど、暴力的な眼差しを彼女達に向けてしまった自分を反省している。

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一般人の方々もいるんだけど、前列はこうやってミスiDだったりブランドの海外モデルだったりローカルアイドルだったりパルコの店員さんだったり関係者だった。

 

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お二方を見たいが為にこんな人混みの中もみくちゃにされながらいたので、当然追いかけて歩き始めるわけだ。れいちゃーん!れいちゃーん!ひと際大きな歓声を受けてる人がいる。黒宮れいだ。この人女王様っぽいし性格キツそうだしなんか苦手だななんて思ってたんだけど、歓声を上げているのは全員女の子で、彼女はその子達に優しく微笑んで手を振ってあげていたし、セルカ棒でツーショットまで撮っていた。ああなんだこの人恐ろしく誤解されちゃうタイプの人だ。優しくて綺麗で儚いのにものすごく曲解されちゃう人だ。なんてコロッと好きになってしまった。

 

そんなこんなで18:00が近づいてくる。『バッファロー'66』は名前は聞いたことがあるけど観たことない映画で、クリスティーナリッチが天使の可愛さだし、渋谷パルコ最後の最後の上映だったからなんとしても観たかったんだ。感想は"好きな子のためならなんでもできる"です。観終わったらもういい時間で、もうすぐで本当に最後だから中も外もお祭り騒ぎだった。瓶のりんごジュースをもらってジブカル特区で水野しずさん見かけたし、スペイン坂スタジオが閉まるとこも見たし、やべえぞやべえと私も雰囲気に酔って気分があがってきた。

 

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こんな感じで夜を過ごしているともう時間が迫ってきた。part1の入り口に行くと、見渡す限り人人人人人人人。間に合った。3,2,1。渋谷からPARCOが消えた日、その瞬間、その場所に私はいたんだ。「ありがと。サンキュー。しばらく、またね。3年先で、待ってるよ」

渋谷パルコには数えるほどしか来たことがない。けれど一つの文化、一つの概念、一つの象徴が終わりまた生まれ変わってゆく。その歴史的な瞬間に立ち会えて血が騒いだ。日本は、東京は、オリンピックに向けてどんどん形を変えていく、本当にどうなっていくんだろうか。私はどうなっているんだろうか。楽しみだ。

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『渋谷からPARCOが消えた日』

いつか思い出すでしょう今日を…一度消えてしまったものがちゃんと形になる日のこと…2019その頃私は大人

きっとPARCO PARCO PARCO PARCO PARCO PARCO PARCO DAYs それまで待つよ未来でまた会いたい

愛はPARCO PARCO PARCO PARCO PARCO PARCO PARCO Only 視線の先に遮るものがないよ

ずっとPARCO PARCO PARCO PARCO PARCO PARCO PARCOだけ 悲しい時は涙我慢しながらあのファッションビルをいつだって見上げてた

サヨナラじゃない渋谷PARCO

 

 

もう半年も前のことで記憶が曖昧になってきたけれど、あの夜のことは忘れたくないな。adiós!

僕らはただ空を泳いだ

 

 わかったあああああああ、とひなちまばりの叫び声をあげた夜。私は「ブランコ」のMVを視聴していた。握手会で本人にも伝えたのだが、寺田さんがブランコをセンターで踊っている時の熱を孕んだあの目が好きでね、何の気なしに観てたんだ。そうしたらとある箇所に気づいたことで頭がフル回転し始め、もしかしたらこのMVの意味って…と少しわかりかけてきた。今回はその乃木坂46「ブランコ」MVの解釈とも呼べない粗末な推測を披露させていただく。


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設定としては、ドラゴンを追い何かを探し求める冒険の旅といったところか。ドラゴンの解釈は多々あるだろうけれど、私としてはごくごく抽象的な"強大な存在"にとどめておく。そしてそこには選抜という意味合いも含まれる。ただ、ドラゴン=選抜というのは辻褄が合わないのだ。これはミイラ取りがミイラになる話ではない、と私は思う。単に寺田蘭世の選抜入りが近いことを示しているのではない。言うなればアンダーの存在に言及し彼女らを鼓舞しているのではないか。前述した気づいた箇所というのは、RANZEの"Z"の字がドラゴンの尻尾の形状と酷似している点だ。当たり前に既出の情報。逆になぜこれまで見過ごしていたのかが不思議なくらいだ。最初から蘭世がドラゴンであると明らさまに臭わせにきている。他にも一人飛び上がりドラゴンの尻尾を掴むシーン、ドラゴンを追って走っていたはずなのにそこにいたのは列の一番後ろにいた筈の蘭世。もがき苦しみだす彼女の背中には羽根が生えていた。額面通りに受け取れば蘭世(ドラゴン)と取り込まれた仲間達と認識するように誘導されているが、本当にそうなんだろうか。なんだか腑に落ちない。そうだ、これはドラゴンになる話ではなくて、自身がドラゴンであると気づく話なんじゃないか。

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名前のZが尻尾の形状と一致する。そして蘭世がいるのは列の最後尾。蘭世はドラゴンの尻尾なんだ。彼女一人がドラゴンという訳ではなくてドラゴンの一部分なんだと思う。アンダー全体でドラゴンなんだ。蘭世は自分がドラゴンなんだって、大きな力を秘めていると一番最初に気づいたんだと思う。ジャンプして尻尾に触れた瞬間は自らがドラゴンであると気づいたことのメタファーに感じる。そしてドラゴンの影を追いぐるぐると無限回路のように繰り返し走るあのシーン。ドラゴンを追いかけていたはずなのに目の前には蘭世が。終末が発端に帰る円運動。まるで自らの尾を飲み込むウロボロスのようだ。ウロボロスの意味するところは広いが破壊と創造のシンボルでもある。(そういえば以前万理華さんがアンダーに対しての概念をぶっ壊してやると仰っていたことありますね)場面に戻ると、先頭のひなちまは異変を感じ取り皆を制す。徐々に皆が異常な状況に気づき始め、少し距離を置いたまま様子を伺う。肩を押さえ膝を沈めるその背中からは半透明の羽根が認められる。戸惑いながらも心配そうに駆け寄るアンダーメンバー。自分達の後ろをついてくるか弱い存在だと思っていた蘭世が自分達が追い求めているドラゴンだった。そこで気づくんだ。自らもまたドラゴンであると。

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かつてはそうだったのに忘れていたのかもしれない。いや、知っていたのに気づいていないふりをしていたのかもしれない。6月9日の寺田蘭世公式ブログを思い出す。私は彼女の事をあまり知らなくて、過去の発言に対して大した自信だなあなんて思っていた。だけどそうじゃないんだ。
 
初期の頃から
センターに立ちたい
っと言わせてもらっていて
だから、気が強そうとか
言われてきましたが
そういう事ではありません。
 
唯、目標を恥じらいなく言える気持ちだけを持ってるそれだけです。
本当は誰だって心の中で叶えたい目標って持ってると思うんです
でも、それを公言できるかできないかの差です。
こんな風に書いていますが
それは簡単な事ではありません。
別に公言しなくたって良い事です
むしろ、大きな声で言う方が馬鹿だと我ながら思うんです。
 
だって、叶わなかったら
恥ずかしい
なら、言わないほうが楽
普通ならこう考えると思います。
 
でも、私は不器用
スーパー不器用です
 
だから、言います!
言い続けます!
 
気弱くて
極度の心配症だから
流石にもう無理って思う事
逃げ出したいって思った事も正直あります。
 
でも、色々考えた結果
テラダの脳みその中に
「諦めたくない」
「皆に嘘をつきたくない」
どんなに辛くても悩んでもこう言うプラスな単語たちの方が勝ってくるんです
 
人生1回きりだし
寺田蘭世という人間で
乃木坂46と言うグループで活動するって事は
生まれ変わりが本当にあったとしても
どんな奇跡が起きても
絶対に起きない事です。
 
今の瞬間しかないです。
ならば、その中で最高を目指すのは勿論だし
果たさなくてはいけない目標です。
 
彼女は弱いからこそ強いという表現が似合う。周囲の人間が目をつぶり早足に通り過ぎようとする弱さに一人真正面から立ち向かう。その姿は誰よりもカッコよくて、誰よりも強くて、誰よりも美しい。センターに立ちたいと公言してきた。みんな本当はその場所で輝きたいと思っているのに挫折して臆病になって口に出さない。そんなの無理だ叶いっこない選抜に入るのも大変なのにセンターなんてと思っている。でも能力じゃなくて自分の可能性を信じるべきなんだよ。

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ただ一人その目に熱い炎を宿してきた寺田蘭世。彼女の姿に自身がドラゴンであると思い出すアンダーメンバー。空に手を伸ばし追い求めていたものはここにあるんだ。自分の中にある。それぞれがそれぞれの武器(道具)を持つ。はたから見たら役に立たないガラクタかもしれない。だけど、それは確かに彼女達の色であり力であり個性であり爆発力を秘めた最強の武器となる。アンダーは選抜の下部組織じゃない。そう選抜は追うのでもなく戦うのでもなく競い合う存在なんだ。君たちには力がある。君たちには誰とも違う武器がある。君たちは強い。君たちは自信を持て。君たちは諦めてはいけない。君たちは絶望してはいけない。君たちは何でもできる。君たちには輝かしい未来が待っている。このMVから伊藤衆人監督のそんなメッセージを感じた。
 
 冒頭で、青い草原の上に立ち眩しそうに建物の上にいる1期生に笑顔で手を振る2期生。そこにはドラゴンの大きな影が見える。蘭世は一人手を振らず眺めるだけ。彼女は最初からわかっていたんだろうか、自分が、仲間達が、ドラゴンだってことを。ドラゴンに憧れ、追い求めた先にいるのは自分自身だと。ラストシーン、暗雲立ち込める屋上で不敵に微笑み手招きをする寺田蘭世。向こうには大きなドラゴンの姿。これから入ってくる3期生を招き入れているようにも見える。そして、私たちファンを呼び寄せているようにも見える。その背に乗せて空の彼方に連れて行ってくれるのだろうか。都合のいい餌として噛み砕かれるのだろうか。どちらでも構わない。どちらでも幸福だ。
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何者にもなれなかった私

「きっと何者にもなれないお前たちに告ぐ」

私の大好きなアニメ『輪るピングドラム』で多用されていた台詞だ。訳のわからぬ空間で訳のわからぬ人物が訳のわからぬことを言うシーンなんだけど、その訳のわからなさに頭をガツンとやられるんだ。ピンドラを観始めた当時高校2年生の私はよくわからないクリエイティビティを持っていて、自己を過大評価していたし、きっと何者かになれると信じていた。だからこの台詞を笑い飛ばせていた。けれど、今はどうだ、純然たる事実として私に重くのしかかってくる。

 

先日、といってももう3ヶ月ほど前のことになるが、高校の友人コバさんと遊んだ。代官山の蔦屋に行くことになって、かれこれ2時間半は滞在してたんじゃないかな。私はその1週間ぐらい前にも訪れていたからちょびっとだけ退屈になっちゃってウロウロしてたんだけど、美術手帖が目に入って立ち止まった。美術手帖ってなんか少し格式高いイメージがあって買ったことがなかったんだけど、9月号は#photographと銘打ち最近のデジタル写真事情を取り上げているようで思わず手に取った。ページをめくっていくと新進気鋭の写真家として小林健太氏のインタビュー記事があった。あ、この人知ってる、渋家の人だ。だけど、読み進めていくとまた知っている名前が出てきた。うろ覚えだがこんな感じの文章だった。"写真を始めるきっかけになったのが渋家の様子を撮っていた写真家の石田祐規で…" 石田祐規。ゆうき/いしだ(写真家)、間髪入れず頭の中でそう変換された。twitterのアカウント名がそれだから。私は石田さんをフォローしているし、こちらもフォローされている。別にそれだけだったら、関連性を見つけて喜べただろうけど、そうもいかなかった。小さな事かもしれないけど、言ったらそんな事かよと笑われそうだけど。

去年の9月だからちょうど1年前のこと、Instagramにあげた写真にコメントがついた。尊敬している女子高校生フォトグラファー山本華さんからだった。"ゆうきさんと〇〇さんが気になるって話していました"  信じられない、心拍数がやばい、でも確かにいいね!されてコメントがついている。こんなに、こんなに、嬉しかった事ない。だって、尊敬している人に、私の写真が気になってるって、そんな風に言われたんだよ。その時はベットにうつ伏せで寝そべっていたんだけど枕に顔を埋めて足を思いっきりバタバタさせた。夕飯の時には、母親にどうしてそんなにやにやしてるの?なんて訊かれてしまった。でね、そのコメントがついた投稿が文化祭の控え室でリカちゃんが緑の風船を持って歩いている写真だったんだ。そう、だから、ずっとお礼が言いたかったんだ、リカちゃんありがとう。

 

で、問題はどうしてこの素晴らしき出来事が私に影を落とすのか?ということだよ。1年前と言ったら高校3年生でしかも9月といったら受験に真っしぐらでしょ。学力に伸び悩んでいたし、もう大学生にはなれないんだと絶望していた。やっぱり好きな写真の道に進んでみる?好きに逃げるの?…当時、専門や好きな道に進む人の事を彼らは学力がないからそこに行くしかない、安らぎに逃げているだけ、快楽主義なのだと思っていた。(こんなに馬鹿馬鹿しく差別的な考えしてたなんて恥ずかしい限りだ) だから、写真をやるっていうのは逃げだと思っていたけど、ある日両親にそれとなく言ってみたんだ。日芸の写真学科も考えていると。カメラの事もよく知らないし、たいしたものが撮れる訳でもないけど写真が好きでやりたいって気持ちは大きかったから。そうしたら、笑って一蹴された。あの父(アマチュアカメラマン)も冗談言うなよと笑ってた。それが一番つらかった。それから一切口に出さなくなった。誰に何を言われようと自分の人生は自分で決められる、決められる自由が与えられているのに、私は人に選択を委ねてしまった。サイレントマジョリティーを聴くとこの時のことを思い出すんだ。"君は君らしく生きていく自由があるんだ 大人たちに支配されるな 初めから そうあきらめてしまったら 僕らは何のために生まれたのか? 夢を見ることは時には孤独にもなるよ 誰もいない道を進むんだ この世界は群れていても始まらない Yesでいいのか? サイレントマジョリティー"責められているような気がするんだ。リスクを取らず安寧の日々に埋没していく自分を。この曲は、呪いのように私を苦しめ縛り付ける。これからは過去の栄光にしがみつき、心の慰みとして写真を撮っていくんだ。期待をかけてくれた人を裏切って凡庸な人生を凡庸な人間として生きていくしかないんだ。とんでもないことをしでかしてしまったと後悔したけれどもう遅い。4年はこの箱に閉じ込められあげく借金を背負わせられる。全部が手遅れだ。


推薦で早々に大学に受かってしまった私は、今まで部活や予備校に行っていたために味わうことのできなかった放課後をエンジョイし始める。と言っても校内で写真を撮るだけだけど。家から父親の一眼レフを2台ほどくすねてきてね。楽しかった。撮った写真をSNSに挙げればみんなが口々に褒めてくれる。のぼせ上がっていたんだな。でも、ある日気がついてしまった。こんなのは情報としての写真に成り下がっているんだと。詳細な情報を搭載させて、これでもう忘れることはないと安堵していたんだ。ばかばかしい。もうみんな大切なものは自分の中には残らず、デジタルな情報として消費していくだけなんだ。そう呟いた私に本を薦めてくれた人がいた。それがヒノハラさんだった。とても大切な本だからタイトルは教えたくない。ヒノハラさんは社会人だけどバンドをしてて映像もやってて写真も撮っている人だった。その本は言うなれば写真についての哲学書であった。他の芸術に比べると写真のことを扱った本は少ない。しかもその殆どが技術についてである。私が知りたいのはそんなことじゃない、写真という概念、その存在についてが知りたいんだ。著者も同様であったようだ。

 

私は「写真」の《存在論》を企てたいという欲求に駆られた。「写真」とは、《それ自体》何であるのか、いかなる本質的特徴によって他の映像の仲間から区別されるのか、私は是が非でも知りたかった。このような欲求をもつということは、結局、「写真」の技術や利用法から引き出せる明白な事実を別にすると、現代における「写真」のすさまじい普及にもかかわらず、私は、「写真」なるものが存在するということ、それが固有の《精髄》をもつということを確信していなかったということである。

 

読んでみてね、やはり自分が撮りたいのは鮮明で高画質なデータとしての写真じゃなくて温度のある空気のある写真が撮りたいと思った。フィルムライクなものをって。こうした表現への志向には、もっとしょうもない理由もあって。あれなんだよ、写真部以外で一眼レフを学校に持ってくる、繰り返しの学生生活を一眼レフで切り取るというのは、それまで私の独占市場であったのに、3年になると皆時間ができるからこぞってバイト代で買ってさ。優越性が侵されるようになった訳ですよ。だからシフトをチェンジして同じ土俵に並ばないようにした。以前と比べて評価してくれなくなったら、本当にこいつらは分かってないんだからとちっぽけな自尊心を守っていた。だけど、やっぱり大勢に凄い!と言ってもらいたからたまには一眼の写真をあげたりして。もうこれは表現なんかじゃなくて承認欲求を満たすための手段として写真を利用していた。自分でもそれに気がついてきて、撮影する回数が次第に減っていくようになった。

 

2月に乃木坂と出会い、3月に高校を卒業し、飛んで8月。ジリジリと太陽が照りつける中、私は渋谷パルコ前にいた。そう7日は渋谷パルコ最後の日。公園通りパレードにライカさんが参加すると聞いて待機していた。弓ライカ。ミスiD2016を受賞した人だ。尊敬している女子高生フォトグラファーに…という話をしたあの華さんら98年生まれで結成されたやべえクリエイター集団の内の一人だった。そんなこんなで勝手にちょっと親近感を持ってしまっていて、これは見なければと思って来てたんだ。今回はミスiD達が縷縷夢兎を着て歩くということだった。この日は確か全ツか何かで乃木坂の彼女達は地方に行っていたから、いつか川後さんに見せようかと思って携帯で撮ろうとしていた。そして彼女達が出てきた。あの天下のミスiDとの距離がわずか1mくらいで何が何だかわからなくなって私は滅茶苦茶に写真を撮っていた。美しい人達だった。…美しいものに対しカメラを向ける、写真を撮ることはそのものの存在を貶める行為だと思っていた。だから携帯のシャッター音が下世話なものに聞こえてすごく苦手だった。形になんて残そうとしないでその目に、記憶に、焼き付ければいい。それに大抵の場合その人達が見ているのは対象よりも画面なんだから。といった信条を掲げていたにも関わらず私はあの日それを踏み躙った。美しい人を貶めてしまった。尊敬する人の友人を貶めてしまった。芸術に対する冒涜だ。乃木坂の彼女達には絶対にしないと決めていた事を、ミスiDの方々には自覚的でありながら、罪悪感を抱きながらも行ってしまった。もう今の時代美しい人は貶められる。暴力的な眼差しを向けられ消費される。クソみたいな世界だ。ミスiDは変わり者が多いと聞くけど、それはそのような視線を常に受けてきたからなのかもしれない。人の浅ましさに辟易しているというか、表層的なものに取り憑かれた我々の狂気に彼女らは人一倍に敏感な気がするのだ。卑しい両の目で美しい人に向ける暴力的な眼差し。私は自分が許せなかった。他の人間も許せなかった。

 

ただの一度きりであるからこそ尊いその一瞬を永遠と繰り返すことで羽毛の如く軽いものにしてしまうのだ。撮るというのはとても罪深い行為である。この悪魔の所業は至る所で見受けられるが、彼らは自分が何をしでかしているのかわからないのだろうか。ファインダー越しの私の世界などと言ってる人間を見かけると、のんきなものだなあと思う。確かになんとなく気の向くままに撮った写真も美しいものだ。だが、今の私にとっては「なぜ」を説明できること、整合性が重要なのだ。なぜその時に、なぜその対象を、なぜレンズを向け、なぜシャッターを押したのか。それが説明できなければ、途端に卑しい視線に変わってしまう気がするのだ。更には、それらしい何かを撮って人に見せるだけの承認欲求を満たすためのツールになってしまうのだ。

 

アイドルばかりだったのにどうしていきなり写真の話をし出すのかというと、完膚なきまでに打ちのめされているからだ。久しぶりにInstagramを開くと同級生の充実した日常が目に入ってきた。みんな最高にカッコいい。映画撮ってたり、舞台やってたり、アイドルやってたり、ラップしてたり、留学してたり、表参道で華麗な朝餉を摂ってたり、ブランドのレセプションパーティーに呼ばれてる中で私は何をしてる?って惨めになる。肩を並べられていたと思っていた人達がどんどん前へ夢の方へ進んでいく中、自分だけが取り残されているみたいに感じる。自分だけが後退している。噂によるとあいつはアイドル好きになってからダサくなったと言われてるらしい。外見は昔からダサいから中身がってことね。悔しい。

 

10月、突然、来月上野で舞台やるので良かったら来てくださいとLINEがきた。同じクラスになったことないし、名前と顔を知っている程度の男子。彼は柔道部で剣道部の私は部活の時に武道場付近でよく顔を合わせたりはしていたけれど、本当に顔見知りというくらいの仲。ん?舞台?何?演技やってるの?と色々疑問がありながらも観にいくと答えた。芸術にはお金を投げるべきだと思っているし安かったしね。7800円に比べれば。でも期待はあまりしていなかった。乃木坂の、まあ言ってしまえばプロの舞台『墓場、女子高生』を観てしまっていたし、正直お遊戯会レベルかななんて失礼なことを思っていた。そうしたら、引けを取らないくらい素晴らしい作品で、ずっとポロポロと涙をこぼしていた。彼、金森君がね、本当に好青年でカッコよくて、高校生役だったんだけど衣装がうちの高校の制服だったんだ。懐かしさに狂い死にそうになりながら、過ぎ去った青春を思い出しながら、目の前の舞台に入り込んでいた。公演後の面会に来てくれなくて残念だったなんて彼は言ったけど、だってあなた大勢の人に囲まれていたし、かっこよかったし、こんな何者にもなれず惨めな生活を送っている私を彼に知られるのが嫌だったから早々に帰ったんだよ。だから後で感想や質問をLINEで送った。アクターズスクールではなく芸能事務所だということが判明した。今は演技のワークショップの多いこの小さい事務所で、高校生の頃はワタナベエンターテイメント所属だったという衝撃の事実。柔道部で気合い入れて坊主にしたんだと思っていたのは役作りの為だったり。映画『3月のライオン』にも出演するんだって。私が無為な高校生活を送っていた間に彼は世界を広げていっていたんだ。そしてその世界で活躍しようとしている。どうしようもなさに襲われると同時に憧れた。舞台でスポットライトを浴びて輝く彼を見ながら、私も何か、なんでもいいから消費をするだけでなく生み出したいだなんて思ったんだ。

 

今の私は乃木坂に依存している。どうしようもない現実から逃避するために彼女達を利用している。救われたのなら恩返しがしたいのなら、彼女達のファンに見合う人間になって、素敵だなと思われるような人間になって、そこで初めて感謝を伝えることが意味を持つのだと思う。だからこれからは距離を置く。少しずつ少しずつ慣らしていって彼女達から離れていく。最初からそうだったんだ、救われたという事実だけでもう充分過ぎる筈だったのに、強欲な私は居心地のよいこの場所に浸かりすぎた。少しずつといいながら全然歩みを進められないかもしれないけど、自分のことに手を回す時間を増やさねきゃね。20歳になる前にどえらいことやってやる。どえらいもん撮ってやる。まずは貯蓄だ…。


(Twitterには普通に生息していますし、お呼ばれすればどこにだって飛んで行きます。誰にだって会いに行きます。こうして同じ"好き"で、社会的地位も年齢も出身も何もかも異なり、普通に生活していたら出会えなかった人に出会えて意見を交換して一緒に楽しんでというのが本当に私は嬉しいんです)

 

そしてこの記事に画像を貼り付けなかったのは私なりの意地。

 

それでは、チャオ。

 

墓場探訪記

若さとは純潔を愛するものだ、と私は思う。心にもない綺麗事は言いたくない、間違ったことは見過ごせない、権力には屈しない、自分に正直でありたい。こどもじみた青臭い正義を掲げる。幻想なき理想主義とはよく言ったものだが、青年の理想とは幻想に他ならない。青年は、在りし日の理想を失った大人を軽蔑し憐れみ自分はああはならないと固く誓うが、その大人も昔は同じように誓いを立てたと気づいてしまう日が来るんだ。それはいかほどの絶望か。日野陽子はその絶望に身を蝕まれていた。絶望からの脱却、理想、そして自己実現のために彼女は自殺したのではないか。

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先日、10月16日Gロッソシアターにて舞台『墓場、女子高生』昼公演を観劇してきた。以下がその概要である。


『墓場、女子高生』は、「死者との決別」を題材にした作品。1年前に自ら命を絶ち、幽霊となった女子高生が、墓の近くで授業をさぼっている彼女の友人たちが行った怪しい儀式によって生き返ったことから展開される物語を描く。

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「いつでも思い出し笑いできるような出来事が、確かにいくつもあったんだけど…、」

 
学校の裏山にある墓場で、合唱部の少女達は今日も授業をサボって遊んでいる。墓場にはいろんな人間が現れる。オカルト部の部員達、ヒステリックな教師、疲れたサラリーマン、妖怪、幽霊…。墓場には似合わないバカ騒ぎをしながらも、少女達は胸にある思いを抱えていた。死んでしまった友達、日野陽子のこと。その思いが押さえきれなくなった時、少女達は「陽子のために…」、「いや、自分達のために」とある行動を起こす。

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万理華さんが座談会で話していたように、日野の自死の真の要因というのは定められているが、観客にはついぞ語られることがない。一人ひとりが日野の死の理由について考え、それぞれの結論・解釈を見出す。その過程が何よりも大切なのだと思う。みんな違ってみんないいじゃないけどさ、そこには正しさや望ましさ優劣はないんだ。レッドリバーバレーの和訳が様々であること、合唱部の面々が日野をそれぞれ違う呼び方で呼ぶことは、私達観客も日野ちゃんを、この舞台を、各々好きなように捉えてくれ、そういう意味合いも込められている気がする。何が言いたいのかというと、あなたが私の話を気に食わなくてもコイツはこう捉えたんだなって位に受け流してほしいというお願い。あとは、私も日野ちゃんを自分の呼び方で呼びたいから、日野君と呼ぶことにするというお知らせ。それでは前置きが長くなりましたが、どうぞ。

 

日野君は、合唱部のみんなにとってイデオローグ的存在であったのだと思う。軽薄そのものの女子高生達の姿。進むべき方向は日野が示してくれるし(死がまだ消化できないし)、将来に対する漠然とした不安なんて気にせず楽しめばいい、だってそれが青春なんだから!そんな風に言わんばかりの騒ぎよう…先日、映画『台風クラブ』を観てみたんだ。死は生に先行するという日野君の台詞の引用元だったから、自死の糸口を掴めるんじゃないかって。あの年頃の少年少女というのは軽薄でふしだらで不道徳で短絡的で暴力嗜好が強く規範から外れようとするとんでもない存在なんだよ。だけど、青春の名の下、大人も子供もその異常性を正当化する。狂ってる、みんな狂ってるんだ。その狂気が今回の舞台にも充満していた。私は最後まで観ていられるか不安になった。嫌な感じだ、気持ちが悪い、駄目なんだ苦手なんだこういうの、背筋がぞっとする、耐えられない、耐え難い。これこそ腐臭ではないか。

そう、それで、話を戻そう。カリスマにより未分化されていた合唱部は、指針を失いバラバラになってしまったわけだ。今までずるずると逃げてきた自分自身に向き合わなければいけなくなる。

 

《西川》井上小百合

ニッシーが合唱部を離れたのは、6人でいることがヒノチの不在を実感させるから、それは受け入れ難いことだから、自分の無力さと責任を知るから。だからオカルト部へと転部し、生き返らせたいという想いと武田部長という新たな指針に盲目的に従うことでどうにか心の平衡を保っているように感じた。だって理系の人だぜ、オカルトなんて非科学的であると鼻で笑いそうなのに。部長より知識が豊富である(例えば悪魔は仏教用語であると説明していた)ことを鑑みると日野君を生き返らせる事を目的としてオカルト部に入った事は明白であろう。武田とは、生き返らせるため・他に一緒にいる人がいないから行動を共にする。完全に利害関係にあるのだ。そして、仲間であった合唱部の面々はオカルトなんてものに傾倒する、謂わばおかしくなってしまったニッシーを腫れものでも触るかのように扱うのだ。日野の親友(と自負していた)西川が、種類は違えど日野のように孤立を深めていったのは何の皮肉か。

 

《メンコ》能條愛未

ドランカーのメンコちゃん。いい音を立てて缶ビールを開けるとぐびぐびぐび。いい飲みっぷりです。あれ、様子が変です。なんだか具合が悪そう。ああっ吐いてしまいました。んんんん、なんてことでしょう、バケツの中の吐瀉物をみんなに見せたくて追いかけ回し始めました…とおふざけは大概にして、メンコには、汚い醜いと称されるものを直視する強さがある。そしてなぜ汚い醜いと定義されているのか疑問にもつ賢さもある。どうして赤子の吐瀉物は触れられるのに、私だと駄目なの?よごれてしまっているから?歳を重ねるとは、大人になるとは、不浄な存在になるということ。腐っていくこと。日野君が受け入れられないかったことをメンコは甘んじて受け入れる。いや、来る日に向けて腐臭に鼻を慣れさせているのか。少女なら頬を赤らめ恥じらい目を逸らしなさいと言われたにも関わらず、私も女じゃけえと真っ直ぐ見つめた時、この人は何でもかんでも真っ向から立ち向かいすぎだと思った。腐っていくことに関しても日野の死に関しても。メンコは最後まで日野を生き返らせることを渋っていた。日野の望むこと、日野がどうして自殺したのかがぼんやりとでもわかっていたから。メンコが日野君を馬鹿にしていたのは単に服がダサいからというわけじゃないよね、日野の理想にしがみつくその姿を小馬鹿にしていたのかもしれない。そんなんじゃ大人になれないよ。そんなんじゃ生きていけないよって。そんな風に思っていた日野が自殺してしまったものだから、、メンコはたぶんエリート気質なんだな。もし日野君と孤独を分かち合える人が居たのなら、それはメンコのような気がする。

 

《チョロ》樋口日奈

失うことへの恐怖。それが日野の死がチョロにもたらしたものだった。大切な人が突然目の前からいなくなる、ずっと続くと思っていたものが突然終わりを告げる。ナカジがダメ元で恋人のタッペイに告白することを頑なに嫌がるのはそういうことなんだろう。人の心は移り変わってゆくもので、永遠などない。終わりの予感に敏感になっているチョロは、生き返った日野君が再び姿を消してしまうと感覚的に気づく。寝たら駄目だよ、またピノがどっかいっちゃうよ。アイドルの卒業を経験したファンのように見えなくもない。いやだいやだずっとここにいて、あなたにいてほしいんだ。卒業しないでくれ。とても素直で感情的な子だ。チョロの乱暴な口調というのは、それでも離れていかない人だけが周りにいてほしいから、虚勢の表れなのだろうか。

 

《ジモ》鈴木絢音

ジモちゃんは、からっぽというか背景がないというか何だかわけのわからない子だなという印象だった。そうしたら、絢音ちゃんが座談会で"もしかしたら心の成長が、みんなよりちょっと遅れている子なのかなあ、と思っていて。だから単にお調子者ということではなく、自分の気持ちがわからなくて揺れているところもある"と語っていて合点がいった。死んだ犬の名前をあだ名として同級生につける。まだ死という概念がないわけではないけど、幼い子どものように理解ができていないみたいだ。そんなジモちゃんがエピローグでね、、はあ、絢音ちゃんがこのまにまに揺れ動く未発達な人格を演じ上げる姿には脱帽だよ。すごいよ絢音ちゃん。流石 Take a risk なアイドルあーちゃんだぜ。

 

《ナカジ》斉藤優里

隣の席だった高校の生徒会長もこのあだ名だった。中島だからナカジ。おい、こっちはポエマーだよねと言われたの根に持ってるんだからな中島。まあ、それでナカジはキャピキャピしてるよね。テンション高くて声が大きくて表情がコロコロ変わってスカートの下にジャージを履いてて。いるよ、いる。こういう女子高生いる。絶対的女子高生感。一年前まで高校生だった私が言うんだから間違いない(間違っている)。ナカジは友人チョロの恋人タッペイに告白しようとする。振られるのはわかってるよ、それでも告白するの。なんでも白黒つけたい、ハッキリさせたい人みたいだね。なのに日野の死だけはもやもやもやもや自分の中で燻っている。自分の事ブスブスいうのも可愛いね、本当はそこまでブスだと思ってないよ!とか。ジモちゃんと昇竜拳の応酬してたところが好きだな。

《ビンゼ》新内眞衣

ヘッドホンをして一人すました顔でいるビンゼ。一緒に遊ぼうよ、合唱部に入ってよ。本当はひとりが寂しいくせに友達がほしいくせに臆病だから強がっちゃって誘いを断る。何聴いてたのと言われ答えなかったのに、興味ない人と1秒も一緒にいられない私たち〜♪いい歌詞だよね私も好き、なんて日野君が言ったらすぐに懐いちゃってさ。人との関わりを遮断するヘッドホンで聴いていたのが『デリケートに恋して』だったのが、いつかこの状況から救い出してくれる人がいると信じている乙女チックな理由とひとりでいるのは私がそうしていたいからという強がりによるものなのが本当に可愛い。日野君もそんな年頃の少女らしい臆病さと世界に期待を持っているビンゼを可愛いらしいと思っていたんだ。そしてビンゼは、新しい世界を見せてくれた日野君に敬愛の念を抱く。なのに、自殺するなんて。自分だけみんなより日野ちゃんといた時間が少ない、自分は彼女に救われたのに救う事ができなかった。後悔の念がビンゼを襲う。みんな違うでしょ!私もそう!日野ちゃんの為じゃない、自分の為なんだよ。私は私の為に日野ちゃんを生き返らせると啖呵を切り、はたから見れば馬鹿馬鹿しい蘇生の儀式に参加するのだ。ビンゼもまた正しさを愛し偽らざる人だったのである。

 

《武田》伊藤純奈

オカルト部の部長、武田様。現状に不満を持つがゆえにオカルトに縋る所謂ぼっちの人。自分に意地悪してくる男子に、鼻の穴が一つになりますように、鼻水が滝のように出続けますようになんて呪いをかけている。この子も寂しがり屋だ。そんな彼女が勇気を振り絞って私も日野さんと仲良くなりたいヒノペチーノって呼ぶねなんて泣きそう。いくつもの卒塔婆を背負って孔雀みたいに登場しきたりとかなりのイロモノキャラだけど純奈は演じきってくれていた。普段から人を笑わせる努力をしている彼女だからこそこんなにぴったりハマっていたのかなと。

 

《日野》伊藤万理華

日野ちゃんのあの歪んだ天真爛漫さが私は好きだ。彼女は永遠に穢れを知らぬ少女でいたかったのだと思う。けれど、学生は一人前の大人になることを社会から要請されている。少女でいられる時間も終わりが近づいていた。世界は腐っていると話した西川に、そうだともと言い切った日野。だが、「私の目が腐っているから、世界が腐って見えるんじゃないかって心配だったの」という西川の台詞。もしも子どもの目が美しい目であるのなら世界は美しく見える筈だ。だが、日野ら女子高生の目に映るのは、世界のありのままの姿。美しく見えるフィルターはどこかになくし、世界の真実を映すその目も次第に腐敗してゆくのだ。

 

やさしさに包まれたなら きっと 

目にうつる全てのことは "不快な" メッセージ

 

不快なメッセージを受け取るのは、大人に近づいている証拠だ。西川はメッセージを受け取りはしたが、その内容を読み解けてはいない。一方日野は、随分前から受け取っているそのメッセージを熟読している。同時にそれは腐敗の始まりと進行を意味する。自らの目が腐っているのではないかと案じていた西川に「お前は美しいよ、ニッシー」と言った日野。あまりにその声音は慈愛に満ちていた。そしてあまりに悲哀を含んでいた。悩ましい少女の姿、その悩ましさの正体に気づいてしまっている己の身。「お前は美しいよ、ヒノ」と一番言われたい彼女なのに、そう言ってくれる人はどこにもいないのだ。もう日野は決めていた、美しいままに死ぬと。来る日に向けて着々と準備を進める。誰にも気づかれぬよう、しかし足跡を残しながら。『Red River Valley』の和訳を西川に頼んだのもその一つであった。英語が得意なんだから自分でやればいいのにと言われた時の苦し紛れの言い訳。日野は自身に一番近い距離にいる西川に最後を飾る手向けとして、そして歌う事で思い出して欲しかったのかもしれない。記憶の中で永遠に美しい存在として。死への予兆はビンゼとの出会いの場面にも見られた。合唱部へ勧誘する際に歌った『誰も知らない私の悩み』選曲は主に日野が担当しているようであるし、誰も知らない私の悩みというのは、腐敗構造に身を置かざる我が身を嘆きこのまま腐り社会のリソースと化すか、尊い筈の命を自らの断つ事で美しく存在証明を追求すべきかという苦悩。加え、「興味ない人と1秒も一緒にいられない私たち」の歌詞が好きだという発言。腐臭を放つ世界には1秒だっていられない。あるいは、真理の追求もせずモラトリアムを消費していくだけならばあなた達を残して私は行くという合唱部員への言伝。

更には、観客に死を色濃く印象付けたあのシーン。腐った大人になりたいんですどうやったらなれますかと日野に泣きついた冴えない会社員高田。その肩を両の手で掴み、日野は何かに取り憑かれたような口調で厳かに語り始める。「死は生に先行するんだ。死は生の前提なんだ。僕たちには、厳粛に生きるための厳粛な死が与えられていない」引用元の映画『台風クラブ』ではこのセリフにはまだ続きがある。「だから俺が死んでみせる。みんなが生きるために」三上君と日野ちゃんの自死の原因が同じであるとは思わない。しかし二人には類似点が多いのだ。そして劇中三上君はこんな問いを投げかける。

「個は種を超越できるのだろうか?種は種の個に対する勝利だって聞いたけど」

彼の兄はこう答える。

「多分それは、鶏と卵だな。個というのが鶏で、種は卵だろ。個としての鶏が種としての卵を超えるというのは、鶏が、鶏の経験が次に産んだ卵を新しく作り変える時であろうから」


そして日野は、桜の木で首を吊った。彼女が、彼女の死が、周囲に気付かれたのは、死体のひどい腐臭によってだった。銀杏の木でなくて良かった臭かったら私気づかれなかったもんと墓場で話した彼女の明るい口調が絶望をまざまざと表していた。厳粛に生きるための厳粛な死を残された者へと与えた筈であったのに、結果的に彼女自身が"不快なメッセージ"となってしまったのだ。この事実に気づき、私は泣くしかなかった。ああ、なんてことだ。なんてことだ…これを悲劇と呼ばず何と呼ぼうか。しかし、死することによって彼女は永遠の少女になった。最後の姿は、決して美しいとは言えなかったかもしれないが、残された者の生に影響を与え、自身は記憶の中美しい存在として永遠になる。だが、幽霊としてこの世に留まる彼女は本当に厳粛な死を獲得したと言えるのだろうか。そこなんだよ。プレポルさんが述べていたように"幽霊になった日野が冒頭から出演し、観客に見えている、という状態は、彼女の死のインパクを弱めてしまっていた"のだ。しかし、この状態というのは1度目の自死は厳粛な死でなかったと観客に提示する演出だとは考えられないだろうか。腐敗した世界のエアーポケットの中で日野は透明な存在として"生かされて"しまっているのだ。不可抗力とはいえ、幽霊としてこの世に留まり存在することを受容する姿に詰めの甘さを感じた。でも、きっと、そう、日野ちゃんは、お山の大将でしかなかった。たぶん本来の彼女というのは観客の私たちが思うような高尚な人間ではないのだろう。本人が演じていたのか、それとも周囲の役割期待によるものなのか。前者…であろうか。西川と二人で話している時、日野がいつものように知恵を授けるが如く歌い出したじゃない。そこで西川が言い放った「私、知ってるよ。ヒノチの言葉ってたまに何の歌でもないよね」一瞬で凍りついた日野。取り繕っていた虚像を見破られた。もっともらしく威厳を保つために歌からの引用として語っているのか、それとも本心を無防備に曝け出すことに躊躇があり引用として語るのか。それは何とも言えない。そう、それで、私たちは日野ちゃんをカリスマだとかエリートだとか他と一線を画す存在に見がちだが、納見が言っていたように彼女も所詮社会を知らぬ小娘なのだ。規範に擦り寄れなかったんだ。大人になることから逃げたんだ。私は彼女を貶めようとしているのではない。だって私自身も彼女を高尚な存在として崇めているからだ。しかし、確かにそのような面はあるんだよ。日野ちゃんが印象管理しているのは事実だ。そして、幽霊となった日野にはもうその必要もなく、妖怪と幽霊と戯れの日々を過ごす。厳粛さはどこにもない。女子高生と同じ、ただただ軽薄な姿。

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そして日野は蘇生の儀式により生き返る。「なんで…なんで勝手に生き返らせたりなんかするの!」短き永遠はピリオドを打たれてしまった。憤慨された合唱部の面々は頭を垂れ謝罪する。じゃあ帰っていいよ、と言う。おい、そんなあっさりとなんて突っ込みたくなったけど、彼女たちは構わずに墓に日野を押し込んでいる。が、失敗。また死ななきゃね、とか言い出す。「死ぬって大変なんだよ!苦しいことなんだよ!」再び憤慨。合唱部の面々は、日野の不在に葛藤するが厳密にいえばそれは彼女の死についてではない。彼女らは日野を失った自己に対して葛藤しているのだ。即ち、自己に対する内発的な葛藤。ビンゼはこれに自覚的であった。しかし、これを公言することを偽らざる正しさとして認識してしまい、先の命題にたどり着かなかった。割り切れない思いがあり、言葉や所作といった表層に浮上するもので判断できないと理解しているつもりでも、どうしても彼女たちの発言は軽骨であるように感じるのだ。まあ、実際無分別ではあるのだけど。

 どうして私たちに何も言わずに死んじゃったのという問いに対し、日野は、うんこするのにこれからうんこしてきまーすなんて言う?言わないでしょ。と吐き捨てる。これは「みんなは私の死んだ理由にはなれないよ」と併せて、死は極めて固有のものであり、他者の介在はあり得ないということを顕著に示している台詞であった。そして、日野の死は彼女の生理であり、そうであること(=死)以外ありえなかったのだ。私は、日野に強く共感してしまった。あまりに死生観が似通っていたからだ。いつか話したように死に憧憬を抱いていたからね。彼女の死んだ理由は私の死にたかった理由なのでは、とまで思ってしまっている。感覚的にわかるんだ。どうして死んだの?なんて無粋なことは訊かれたくない。最も私的で最も固有で最も美しい秘密をなぜ人に説明しなければいけないのだろう。本当のことを言うとねここまでのこんな文章は、こじつけに過ぎない。言葉をこねくり回しているだけなんだから。わかる、としか言えないんだから。盛大な勘違いかもしれない。私ってよく自分がこの世界でただ一人その人の良き理解者だって思い込んでしまうことがあるから。李徴然り、ホールデン・コールフィールド然り。ごめんなさいね、お見苦しいところを見せてしまって。さて、"世界を美しく定義したい"これが日野の望みである。醜き腐った世界というのはあり得ない。世界を醜い腐っていると認識する自己があるだけだ。世界とは認識であり、認識とは自意識である。言い換えれば、世界とは自意識なのだ。若さは、世界をどうとでもできるんだ。そして日野は合唱部の面々に自分の死んだ理由を美しく定義させる。純然たる事実として日野の死を自己に落とし込む作業。死者との決別はここで成されたのだ。日野は自己を意識する度合いが強かったために絶望の度合いも強く、自身を美しく定義できなかった。だが、皆に定義し直されたことで日野の存在とその死は厳粛なものへと昇華していった。山彦と真壁が述べていたように、存在の持続には、私が私であるという意識のほかに他者からの承認が必要なのだ。厳粛である日野が為すべきことは、状態としての死に立ち戻ること。そこでようやく厳粛な死を獲得するのである。だけど、彼女が次にどんな行動をとるのかなんてわかっていたはずなのに、悲しくて切なくてどうかいかないでって思ってしまったんだ。その先はかなりの衝撃を受けた。

 

桜の木からぶら下がる人の形をしたなにか。おおよそ生きている人間では見ることのないあのアンバランスなシルエット。日野だ。あれは日野だ。ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん。不安定に揺れる。死体が揺れている。皆叫ぶ。声にならない声で泣き叫ぶ。怖いときは歌を歌おう。涙でぐずぐずになりながら、歌うあの歌。

卒業式。合唱部は「レッドリバーバレー」を歌う。皆晴れやかで清々しい表情。ああ、彼女らは卒業できたのだな。日野からの卒業。

エピローグ:あんなに賑やかであった墓場も今はビンゼとジモのふたりしかいない。それぞれ日常への回帰やモラトリアムからの脱却を試み、厳粛な生を生きているのだろう。そして、ふたりは本名を明かしあう。あだ名という記号を与えられた集団の成員から一個人として根源的な自己に立ち返るのだ。さようならが言えなかったビンゼはさようならを言い、去る。失うことがわからなかったジモは失ったものに寄り添う。いつか忘れちゃうって話してたよね。でも、ビンゼのさようならのポーズ,ジモがのどを鳴らし飲むコーラは日野の面影を色濃く映していた。もし、思い返すことが出来なくとも忘れてしまっていても、日野は彼女たちに影響を及ぼし彼女たちの中で生き続けるのだ。永遠の少女、日野陽子。あなたは美しい。

 

 

私の解釈は以上だ。しかしね、日野の死は美しくありたいという極めて私的なものに収まらないもののような気もするんだ。腐った世界において腐臭を引き受け、つまり、イエスの如く原罪を背負って死に、イエスの如く生き返った。迷える子羊の導き手となるように。日野の魂は限りなくイデアに近いものだったのかもしれない。

我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる。

つまり、真の認識とは「想起」(アナムネーシス)にほかならない、と言うのである。そしてphilosophia(=愛知)とは「死の練習」なのであり、真の philosopher(愛知者)は、できるかぎりその魂を身体から分離開放し、魂が純粋に魂自体においてあるように努力する者だとした。この愛知者の魂の知の対象が「イデア」である。
イデアは、それぞれの存在が「何であるか」ということに比較して、「まさにそれであるところのそのもの」を意味する。

 ………日野が幽霊として墓場に住まう、とはまさに肉体を持たぬイデアであったということなのでは。やはり、もう一次元上の話であったか。当方のような浅学菲才では到底辿り着けぬ真理であるようなので有識者の方にお頼みしたい。日野陽子におけるイデア論を交えた墓場女子高生の考察・解釈をお願いします。いや、イデア論と容易に結び付ける事自体が浅慮であるのか。上記の文章もwikipediaからの引用だし。そうだとしても、個人的に興味関心があるので是非ともお願いしたい。

 

いやはや、要点をまとめ簡潔に述べられぬ人間であるとは自覚していたがここまで長い文章になるとは。もしここまで読まれた方がいましたら、大変お疲れ様です。こんな駄文にお付き合い頂いて、すじょいせん。ええ、すじょいせん使ってみたかっただけです。許してください………許されます。私は当初この舞台を観劇する予定はなかったのだが、ありがたいことにお誘いを受けて観劇の運びとなった。はるぼうさん等には感謝しかない。そして、御三方が「推しじゃないのにまりかにはどうしても目がいく、惹きつけられるんだよな」と話していたことが、自分の事のように嬉しかった。自慢げな顔をしていただろうな。そうだ、そうなんだよ、私の応援している万理華さんはいつでも輝いていて、いつでも可愛くて、いつでもかっこよくて、いつでも刺激を与え、いつでも人々を魅了し、いつでも私たちの想像なんて軽々と超えてきてくれる人なんだ。伊藤万理華を見よ!なんて言ってしまうくらいにはね。追いかけてもそこに伊藤万理華はいない、それでも彼女を追いかけていたいんだ。追いつかないとしても、その背中を見つめていたいんだ。それに追いかけた場所にいないのなら、いつかは先回りだってしてみたい。日野陽子を演じる万理華さんを観れた私は幸せ者だ。それでは、そろそろサヨナラのお時間です。最後は『Red River Valley』でお別れです。

 

谷間を去るあなたの

輝く瞳と笑みは

なにもかもを連れてゆく

わたしだけを残して

そばにおいで あなたよ

ひきとめたりはしない

ただもう一度レッドリバーバレー

最後に歩く小道

 

悲しいとか 寂しいとか

どれだけ傷ついたとか

今はまだわからない

今はまだその途中

谷間を去りあなたは

次の暮らしを見つけ

思い出のレッドリバーバレー

わたしだけを残して

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美しいあの人

10月6日19時、品川プリンスホテルクラブex。桜井玲香主演『嫌われて松子の一生』赤い熱情編夜公演を観劇した。


桜井玲香とは何者なのか?その問いの答えを見つけられるような気がしてこうして舞台を訪れた。だって玲香さんって不気味なくらいよくわからない。キャプテンやポンコツ、若との関係に隠れて本当のあの人がどんな人間なのかが全くわからない。人狼で見られたように恐ろしい観察眼を持ち、かと思えば普段は意味のない言葉を羅列して、挙句みんなが笑ってくれることが本望だと言う。陽気であろうとする人だということも判明している。だけど、ふとした瞬間にこのまま消えてしまうんじゃないかと恐ろしくなるくらい儚い雰囲気をたたえ、表情に暗い暗い影を落とすことがある。稀に見せるその陰り。何が彼女にこんな顔をさせるんだ、その胸の内に何を隠しているんだ。私は桜井玲香がどんな人間なのかが知りたい。知りたいんだ。だが、今回も大した収穫はなかったと言える。なぜなら私が2時間ずっと観ていたのは、桜井玲香ではなく川尻松子であったからだ。桜井玲香は一瞬たりとも姿を見せなかった。


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私が思うに赤松子は「静」であった。どこまでも静かに穏やかに彼女の存在が、人生が自分の中に入ってくる。赤い熱情編というサブタイトルや前評判、脚本家・役者さんの呟きからイメージされる赤松子は激情ほとばしる強烈な女性であったが、どうも全くそのようには感じられなかった。玲香さんは、松子のありのままを彼女の人生を、観客に対し寸分の狂いなく、誤解を与えないようにと緻密な計算の上で松子を演じているような気がした。憑依では決してなかった。俯瞰としての桜井玲香が手綱を持ち、演者としての桜井玲香が少しでも松子から外れそうになると即座に正すような、そんな理論づく計算づくの言うなればシステマチックな演技であった。なだぎさんが、TMツインテールはもうしない耳が大きいからかとか、また会おうやハルジオンが咲く頃にでも、とアドリブで乃木坂ネタを挟んで笑わせてきたが、玲香さんはアイドルの自分が顔を出すのを、観客がアイドルの桜井玲香をこの場で見出すのを、本当に嫌がっていてそれに対して触れないようにちょっとムスっとしていて。それを観てああ玲香さんとくすっとなった。潔癖を愛す、完璧を求める、普段見せないその青くささが見られたようで嬉しかった。ここだけじゃないかな彼女が個人的な感情を舞台上で出したのは。玲香さんは感情的で心のままに生きる人の印象があったけれど、とても理性的で自律心の強い人なのだなと思った。でも抑え込み制御している分それが開放された時には、皆が口を揃えて言うように化けるんだろうね。


八女川徹夜。自分を太宰治の生まれ変わりと信じ文学に生きようとする男。私は岡野同様この男に嫉妬した。どうしようもなく文学的ではないか、最高の最期ではないか。超個人的な話になるが私は死に強烈な憧れを抱いており、中学生の頃から自殺願望があった。中学生の時は、死とは唯一の救済であり人間の最も私的で美しい状態であると思っていた。高校生の時は(というより現在もだが)死とは自己実現であるとともに永遠を手に入れられる蜜な行為であると思っていた。だから高校生3年生の冬、卒業前に自殺しようと本気で考え日時まで決めて色々と準備していた。その頃に乃木坂と出会ったわけだけど、乃木坂の存在は自殺への憧憬を加速させるだけであった。美しい彼女たちを見て、私の青春はもう終わる、今の美しい瞬間に、18歳の女子学生として美しいまま、永遠の存在になりたいと。何度目の青空か?を聴いて何度涙を流し何度と死にたいと思ったことか。まあ結局、人生を揺るがす一大事が私の身に降りかかり、それによって計画の遂行が困難となったところで乃木坂に救われたのだが。そんなことはどうでもいい。話を戻すと、八女川の死は私の理想そのものだった。死に際のシーンの二人の太宰の引用も好きだ。知っているフレーズがいくつも出てきて心の中で復唱していた。「疑いながらためしに右へ曲がるのも、信じて断乎として右へ曲がるのも、運命は同じ事です。どっちにしたって引き返すことはできない」(お伽草子) 「生きていさえすればいいのよ」(ヴィヨンの妻) そして大好きな詩が出てきた時には、玲香さんが口を開くと同時に自分も唱えていた。「"あなたに助けられたから好きというわけでもないし、あなたが風流人だから好きというのでもない。ただ、ふっと好きなんだ"」(お伽草子) この時ばかりは震えた。そして、頭をガツンと殴られた様に衝撃を受けた台詞があった。


純粋の美しさは、

いつも無意味で、無道徳だ 。


八女川の問い。綺麗とは何だ、美しいとは何だ。綺麗とは人に不快感を与えないことなのかもしれない。見てくれがいいだとか極めて表面的なものに思える。美しいとは不快である。目を背けたくなるし、一心に見つめていたいとも思う。美しいものには重さがある。美しいものはどんなものも許容し内包する。醜いものは美しい、欠けているものは美しい、歪なものは美しい。そして、川尻松子は美しい人だった。

"その重々しい荷物はわれわれをこなごなにし、われわれはその下敷きになり、地面にと押さえつけられる。しかし、あらゆる時代の恋愛詩においても女は男の身体という重荷に耐えることに憧れる。もっとも重い荷物というものは、すなわち同時にもっとも充実した人生の姿なのである。荷物が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる"  ー存在の耐えられない軽さー

松子は、その重い荷物を抱え地面に鼻を擦りそうになりながら這いつくばり必死に生きていた。そんな姿でありながら泥臭さは微塵も感じさせず、ただただエレガントだった岡野が言う様にこの人は、自分が傷つかない計算なんて出来ないんだ。ただ好きだから愛しているからとどこまでも突っ走って…自分の気持ちに正直であるだけなんだ、真っ直ぐすぎるだけなんだ。男達にとって松子という存在は眩しすぎたんだ。優し過ぎたんだ。愛し過ぎたんだ。高尚過ぎたんだ。怖くなってしまうよね、こんなにも深く愛され自分も彼女を愛しているのに、貰った大き過ぎる愛情を返せない。自分ばかりが与えられている。それは男にとって恐怖であり屈辱であり不甲斐なくもあり、あとは何だろう。それぞれに思うところはあるだろうけど、皆一概に松子は俺にはもったいないと言い彼女の前から去る。どうしてなんだよ、あんたがいなけりゃ松子の幸せは成り立たないっていうのに、どうして彼女の元を離れて幸せになれ、俺にはもったいないなんて言うんだよ、とどうしようもない気持ちでいっぱいになった。玲香さんには幸せになってほしいな。松子の様に救いの手をを差し伸べる人だから堕落した男の側にいてあげそうだし、あの鋼鉄の理性の鎧の下はとても動物的であるような気がするから、本気で人を愛してしまったら危険なことになりそうだ。


もし松子の人生を悲劇であるというのならならば、その始まりは彼女の父にあるのではないか。金を借りられたんなら(勘当された)家にも帰れるんじゃないかという八女川の言葉に松子は一言「私父に嫌われているから」それがどうにも引っかかってしょうがなかった。序盤の松子は、よく喋りよく言い訳しよく思われようとする、言ってしまえば底の見える見苦しい女だった。ここの玲香さんの小物感漂わせる演技がね本当に人を苛つかせる感じで、凄かったんだ。プロだ!なんてちょっと興奮した。そう、それで、松子のあの姿勢というのは、他者に媚びている。誰かの目を気にしているんだ。松子は川尻家の長女であるが、父は第一子に女ではなく男を望んでいたんだろう。松子はそれを感じ取っていた。でも実際には、不器用で女の子をどう扱えばいいのかわからなくてそっけなくなってしまっただけで、松子を気にかけていたし愛していたと思うんだ。手紙にもあったように死ぬ直前までね。ああそれも含めて悲劇なのか。


心の中に神がいるのならば、きっと頭の中には地獄がある。松子は神様である、神が宿っている。それに気がつくと諸々の事情がストンと腑に落ちてゆくのだ。松子がキリストならば、男達は裏切り者のユダなのか。いや信心深い信者か。キリストは最期どうなったんだっけ?…十字架に磔にされた。やりきれない。松子を遊び半分で殺した不良共を許せるのか、愛することができるのか。龍くんはできると言った。

敵を愛しなさい (Love your enemy)

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子になるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい」

私もキリスト教の精神性には興味があるが、絶対の存在の目があるからこそ見られているという意識があるからこそ、善き人間でいられるだけであってその絶対なる指針を感じられなくなったら途端に駄目になるじゃないかなんて思うのだけど。別に宗教批判をしている訳じゃないんだ。信じる力というはすごいなというだけだ。私が一番に興味があるのは、玲香さんにとって神とはどんな存在なのか、ということだけだ。幼稚舎の頃からカトリック系の女子一貫校に通っていた、その彼女にとって神とは?そして自身が舞台上であるとはいえ神と称されることをどう思っているのか?神という存在が人格形成に何かしらの影響を与えたはずだし。若もそうだ。カトリック系の女子中高一貫校に通っていた。その点においても二人が松子を演じることに何かしらの意味合いがあるように思えてしまう。同一人物ながら双生児めいた二人の松子、赤松子・黒松子。二つが合わさることでこの舞台は完成するのだろう。私は中では未完のままだ。若の松子を観れずに千秋楽を迎えてしまうのは無念だ。


しっちゃかめっちゃかしてきたのでここら辺で一区切りにさせていただく。後日また続きを書くつもりだ。感じたことも思うことも考えることも多過ぎて、それらを捕まえて文字にするという作業が追いつかない。情報量が多過ぎる。原作を読んでないし物語も全く知らなかったので、この所作はこの表情は松子のこれまでの人生のどんな経験によるものなんだと頭も稼働していたのでキャパオーバー気味だ。台詞も音楽も覚えておきたいと欲張ってしまったしね。あ、そういえば、小坂明子さんのレコード買ってしまいました。あなた他数曲が入ってるもの。届くのが楽しみ。初めての乃木坂の舞台でこの『嫌われ松子の一生』を観れたというのはとても光栄だしとても重要なことであったと思う。…ファンとしてのターニングポイントというか。観たことで私の人生は確実に変わった。次は、ちょうど一週間後の16日に『墓場女子高生』。松子を観たことでハードルが上がり過ぎているので、どうそれを超えてきてくれるのでしょうか万理華さん。私はあなたの演技が観たくて行くんです。ああ楽しみだ。


桜井玲香は何者なのか?相反する二極のものを内に住まわせている、とそのくらいのことしかわからなかった。調査続行。これからも探っていきたい。


は、最後に。


さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。

いつもの夏とは違うんだ

8月30日、私は神宮球場にいた。
通路の壁に背中をぴったりとくっつけ体操座りで耳を澄ましていた。とても幸せで、心地がよくて、このまま穏やかな眠りについてしまいそう。ああ乃木坂がすきだなあ。

その前日、ひどい仕打ちを受けて心が沈んでいた。その人はひと回り年上の女の人で、私にとても興味を持って色々と質問をしてきた。頭のいいひとだ。その人との話はとても面白かったけど、なぜだか最後には決まってあなたと私は似てる、と言うんだ。そこに違和感を感じ始めて、彼女からの誘いをきっぱり断った。そうすると、それはあなたの為にならないと巧みな話術で考え直すように迫ってくる。それでも、首を縦には振らなかった。次第に態度が変わってくる、嫌悪感丸出しの顔をしてる。彼女には私を救うことができない、私には彼女に救われるつもりがない、とわかったら、途端に攻撃してきた。彼女に言わせると、私の人生は破滅しかないらしい。結局彼女が私に対してよくしてくれてたのは、自分の為だったんだ。過去の自分を救うために、私に自己の投影をしてたんだ。そうだとわかってるのに、そんな人間の言う事なんて気にしなければいいのに、人格を否定されてとても傷ついた。家に帰るまでに気を抜いたら泣いちゃいそうだ。でもその日は幸か不幸か雨だった。小雨の中傘をささずに渋谷駅を目指す。涙のしずくは隠せても目の赤さは隠せないのにね。

次の日、起きて洗面所で顔を洗い目を上げた時鏡に映る自分の姿が憔悴しきっていたのがかなしくて笑えてきた。まぶたはひどく腫れ、瞳は生気がないのにどこかギラギラしてて、クマがくっきりと浮かんでる。髪は乾かさないで寝たためボサボサで、顔は土みたいな色をしている。だけど、神宮の物販へ行こうとそれだけの気持ちで、よくわからないラーメンの汁のシミみたいなのがついている白い小汚いTシャツを着て家を出た。

(実はこの日は本来なら高校の友人達とBBQをする予定だった。夏らしいこと、大学生らしいことなんて一つもない夏季休業だったからいつもは断る誘いも今回はOKした。だけど台風の影響でそれが中止になり都内で食事でもという方向になった。なんだかそこで気持ちが冷めてしまって、電車が止まったりしたら帰れなくなるとか適当な理由をつけて幹事に不参加の旨を伝えた。神宮に行きたかったから)

その後神宮に到着し4時間物販待機列に並んだけど少し手前で買いたいグッズが売り切れた。ついてない。ダルメシアン柄浴衣。結局何も買わずにブースを出て、行くあてのない私は今野さんオススメのパスタ屋さん麦小屋に来た。一番奥のカウンター席に座り、『たらこと大根おろしと大葉』を頼む。店内はどこか懐かしさを感じるポップチューンが流れ、マスターはそのリズムに合わせて料理している。お待たせしましたと目の前にさしだされたたらこパスタを一人無言で頬張る。もちもち、もちもち、うん、おいしい。美味しいものを食べ、お腹が満たされると嫌な気分というのは晴れてくるものだ。ようし、やっぱり伊勢丹コラボのバケットハット買おう、被っていた男性ファンがいたけどかっこよかったしな、なんて再び物販会場に向かう。もう開演15分前だからスッカラカンだ、列さえできてない。ものの30秒で会計を済ませたら、足は自然と球場の方へと向かっていた。だが、当然のごとくチケットは持っていない。無券というやつだ。私は今まで一度もアーティストのライブに行ったことがないのだけど会場からの音漏れを聴く人がいるということは知っていた。そう、だから、音漏れを聴くことにした。

コンコース、と言うのだろうか。外側の通路に近くの建物からの反響で音がはっきり聞こえるポイントがあった。先客達は壁際にぽつぽつ等間隔に座っていて中の様子に思いを馳せているようだ。それに倣い間に入って座ってみる。ひとりぽっちなのは私だけみたいだ。みんな2人か3人、あるいは待ち人がいるようだった。だけどそれに対して寂しさを感じる訳でもなくライブが始まるのがただただ楽しみだった。この日は神宮バースデーライブ最終日、10枚目の『何度目の青空か?』から始まるはずだ。この曲は私にとって特別なものなんだ。乃木坂らしいと称される『君の名は希望』,『羽根の記憶』,『悲しみの忘れ方』,『今、話したい誰かがいる』,『きっかけ』を初めて聴いた時ぼろぼろと涙が溢れて嗚咽をあげて泣いたが、一番泣いたのはこの曲だった。当時私は高校3年生で、家庭学習期間なんてものを消化して卒業していくだけの状態だった。そんな時に聴いたもんだから、校庭の端の誰かが閉め忘れた蛇口、同じように僕の心の片隅にも出しっぱなしの何かがあると語る主観に対して自己を重ね合わせてしまって、ああ私の青春はこのまま終わっていくんだ、青春を見逃してしまったんだ、もう取り戻せないなんてわんわん泣いてしまった。乃木坂に救われた私に傷を与えていった曲という意味で特別なんだよね。まあ、そんなのはいいや、神宮最終日は『何度目の青空か?』に始まった。聴いてるだけだ、彼女達の姿なんて一切見えない。だけど、生田さんが一人逆光の中強烈な存在感を放ちながら登場し会場を沸かしている光景は容易に想像し得た。これは何空に限ったことではない。見えない分、違う感覚が鋭くなったのか彼女達がどうしているのかがわかるんだ。頭の中の彼女達も輝いている、会場で3万5千人を魅了してる彼女達も輝いている。

そうしていくうちに興奮より安心を得て、とても穏やかな気持ちになった。嫌なことは全部忘れられた。本当に彼女達のことが好きで好きでたまらないんだ。癒しや甘えの中に逃げ込んでいるのかもしれない。それでも、私にとって乃木坂が救いであるということだけは確かなんだよ。 

…金曜日から大学が始まった。社会学の授業で教授は人間は社会的な存在だと繰り返し話す。自己同一性というのも、人間が社会的な存在である故に他者との関係の中で自分について考えなければいけなくなる。大勢の中の一人、ほかでもない自分自身について。そう、そして、自分以外のものを引き合いに出さなければ自分を説明できない。人のアイデンティティなんて唯一無二の何かで構成されているわけではなくて、継接ぎみたいなものなんだろうね。私にとって乃木坂は継接ぎの面積も大きいし丈夫で綺麗だし重要な箇所にあるんだ。今の私について説明する時、最も有効な手段というのは乃木坂について語ることだ。だけど、初対面の人だったり無遠慮な人にはあまり話したくないんだ。とっても私的で敏感で大切なことだから。以前は1日の8割を乃木坂について考えていたりもしたけど、今は生活の中に静かに浸透していって、乃木坂について考える時間は減ったけど、いつだって彼女達の存在が支えになっているし、(私みたいな冷めていた人間が言うのもおかしな話だけど)心の中にいるという感じがするんだ。乃木坂について知っていくことが自分を知っていくことなんだと思う。

ーそして、今年初めて花火を見る。そう8/30の神宮球場でだ。柱の間から見えたあの花火が大袈裟でなく、今まで見てきたどの花火より綺麗だった。乃木坂を好きになって初めて迎えた夏。いつもの夏とは違うんだ。18歳の夏はもう終わる。